古代史の未解決謎 誰も知らないスッピン卑弥呼さんの考察にチャレンジ

神埼駅(佐賀県神埼市神埼町)の北口駅前広場にある卑弥呼像
神埼駅(佐賀県神埼市神埼町)の北口駅前広場にある卑弥呼像
 今回のヒストリーツアーでは、いまだ幻の邪馬台国にタイムスリップして、誰も知らない素顔の卑弥呼さんをご紹介!という夢のチャレンジですから、ただの妄想にならないよう気を引き締めて、しっかりと想像力を働かせながら推察・推考いたします。

 では、幻想の大門をくぐって、存在したことだけは確かな邪馬台国へと旅立ちましょう。

邪馬台国の人々

 ご存じのとおり、ざっと2世紀~3世紀ころ西日本のどこかに存在していたことは間違いないであろう邪馬台国や女王・卑弥呼のことは、古代チャイナ地方の歴史書『三国志』のなかの《「魏書」第30巻・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条》の記述を頼りにするほかありません。

 ただ、記されている大陸から邪馬台国までの航路が、いま現在では特定できないため肝心の所在地が不明ですし、邪馬台国の人々の様子に矛盾点があるのも悩みのタネでしょう。

 おなじく『魏志倭人伝』のなかには、 ”倭国大乱” という記述も見られます。大陸の魏国からながめてみれば、およそ2世紀後半の日本列島各地に割拠していたらしい小さな国々が、ざっと40~70年前後もの間を揉めに揉めていた、というのです。

 かつて拙著『激震』を書いているとき思いあたったのですが、この大乱は、縄文時代から日本列島に住み続けてきた人々と、あらたに半島から移り住んだ人々との、いわゆる移民問題が火種となって長引いた戦乱ではなかったか?!などと考えています。

 たとえば現在には10数年前ころだったか、シェアハウスが流行って数ヶ月後には、同胞外国人が群れて居座ったり、チャイナ地方からの観光客のバク買いに湧いた数ヶ月後には、あまりのマナーの悪さ・文化の違いに悲鳴をあげたりもしましたね。

 しかし、すっかり忘れてしまったようで、いまは安い労働力を求めて外国人を迎え入れた結果、全国各地の市町村や23区単位で治安の悪化・自治体内での諍いなどが著しいにも関わらず、政府が移民政策を推進してるって、どうなんでしょう?!

 いずれにせよ、弥生の国々のうちには、ついに反戦ムードがピークに達したようです。

 「そもそも荒ぶる男王たちが支配していたため、恨み辛みが代々に引き継がれて長い争乱となったのだ!」と考察したらしい当時の人々のうち、近隣の30ヵ国ほどが連合・団結して、いまだ争い続ける周囲を抑止しようと話し合い、卑弥呼を女王として擁立することで邪馬台建国の父母となった… 

 そのように思っていいでしょう。こうした一致団結の気運も、やはり日本民族ならではのことだったろう、と私は推察しています。来る者は拒まず、去る者は追わず、しかし自然の摂理に対して逆らうことは許さず、新たな生命を生み育む女性を仰ぎ奉る精神性は、およそ1万3千年もの長きに渡って天下太平を貫いた縄文人=日本民族ならではのDNAの記憶だろうと考えているのです。

初めまして、卑弥呼さん

 なにせ1万3千年をかけての混血と進化・進歩ですから、それだけ1つの文明がつづいたことも、つくづく《和を以て貴し》の凄みでしょう。

 しかし、縄文初期のころには石器時代だった世界各地でも、1万年以上が過ぎるうちには、それぞれの地域で人類の進歩と調和と崩壊が繰り返されたことに間違いはないのです。

 邪馬台建国のころには、とっくに万里の長城が出来上がっていましたし、古代エジプトはローマ帝国に滅ぼされていますし、卑弥呼が女王となったころから200年前後ほど以前には、キリストが十字架にかけられたのちに復活していました。

 ただし、邪馬台建国が紀元何年ころか?!というのは、日本史上において正確には分かっていません。もちろん卑弥呼の誕生日や出身地や前半生なども一切不明で、女王になってからの生活も謎のベールに包まれ、ついに没年どころかお墓さえ、いま現在でも不明です。

 かといって、ありがたく執筆のチャンスをいただきながら、『魏志倭人伝』の記述解説などしては勿体ないので、情報量は乏しいながらも貴重な卑弥呼プロファイルをもとに、私の愛しい卑弥呼の”人となり”を掘り起こしてご紹介してみましょう。

 魏国の人が綴った彼女のプロファイルを要約しますと、ほとんど国民の前に姿を見せることなく引きこもり、食事など身のまわりの世話は1人の男性が勤めていたそうです。

 また、大陸との国交を樹立するなど国際感覚もあり、そのころのチャイナ地方で密かに流行っていた《鬼道》という呪術も完全にマスターして自在に祈ったり呪ったりしていたそうで、邪馬台国民は彼女のもとに団結し、平穏無事な生活を送っていたようです。

 こうした情報から導き出される人物像としては、よりいっそう自身の神秘性を高めながら、人心を掌握するすべを熟知していた女性だったのでしょう。

 ようするに《恐れ多くも畏くも》と、現在でも神社の拝殿で唱える祝詞に通ずる所作ですから、あるいは古代神道の発祥にも少なからず影響を及ぼしていたのかも知れません。

 私が初対面したときの卑弥呼さんは、このように尋常ではない才色兼備の巫女でした。

女王昇天

 さらに言えば、邪馬台国が存在した当時の日本列島のどこかには、いずれ大和朝廷を開闢する一族のご先祖方々も住み暮らしていたはずです。

 しかし、記紀(『古事記』と『日本書紀』)のどちらにも邪馬台国や卑弥呼についての記述がないことを根拠として、邪馬台国の敵対勢力だったと解釈するのが有力説みたいですね。

 天皇を頂点とする大和政権にとっては、その成立以前に海外との外交まで成し得ていた国が存在したことが不都合なために、あえて存在自体を抹消したのだ!とも力説されますが、かつて拙著『激震』を書いた私なりの見解は、まったく逆です。

 記紀の編纂作業が始まる前の天皇家には、歴代に引き継がれた『天皇記』など、数冊の歴史書があったことも伝わっています。ことに日本神話については、前時代からの口伝え伝承もあったに違いなく、したがって記紀の編纂者たちには、ある程度の想像や創作くらいは許されていたにせよ、ねつ造や抹消など、思いつきもしなかったでしょう。

 なぜなら、それは日本民族の祖先たちの魂そのものを穢し、貶めるものだからです。あえて言うなら、そのようなことを平然としているのは、テスト勉強しか能がなかった高学歴の自分を賢い!と思い込んでしまった、バカな反日左巻き連中でしょう。

 ともあれ、日本神話の伝承者方々や記紀の編纂に携わった者方々は、卑弥呼をイザナミノミコトとかアメノウズメノミコトといった天照大神に近しい女神の化身とか、いっそ天照大神の化身といった想いを重ねていたのでは?!と、私は本気で考えているわけです。

 なぜ?!と問われたなら、卑弥呼や初代神武天皇は、およそ1万3千年をかけて日本民族のDNAを作り上げた縄文人の遺伝子情報を受け継いでいる同胞だろうと、私は推察・推考しているからだ!と答えます。

 そんな私がながめる日本史上において、少なくとも明治維新が成立するまでの先人たちは、いかに時代が移ろうとも前時代を全否定することなどなかったのです。

 そして、地位や名誉など関係なく誰もが日本民族としての誇りを保ちつつ、はるか古代から全人類が共存共栄する世界を夢みつづけてきたことも、また歴然たる史実なのです。

おわりに

 今回は、はるか古代の戦国時代を生き抜き、おそらく日本史上初の女王となった卑弥呼の素顔に迫ってみました。

 私が知る限りの学者さん方々、その誰一人として思いついてないでしょう日本神話につながるスッピン卑弥呼さん。決して妄想ではない発想だろうと思ってはいるのですが、さて、いかがだったでしょうか?!


【主な参考文献】
  • 田中英道『日本国史』
  • 樋口清之『樋口清之博士のおもしろ雑学日本史』(三笠書房、1988年)
  • 関裕二『いま蘇る縄文王国の全貌』(ベストセラーズ、1996年)
  • 菅靖匡『西日本最高峰石鎚山 激震』(東京図書出版、2016年)
  • 『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1 』(岩波書店、1985年)

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  この記事を書いた人
菅 靖匡 さん
2004年、第10回歴史群像大賞優秀賞を受賞し、 2005年に『小説 大谷吉継』でデビュー。 以後『小説 本多平八郎』『小説 織田有楽斎』(学研M文庫)と、 さらに2011年から『天保冷や酒侍』シリーズなど、 フィクションのエンタテイメントにも挑戦している。 2020年には『DEAR EI ...

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