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伊達政宗が長命だったのはグルメにこだわったから?
- 2024/03/11
奥州の虎として他の武将から恐れられた伊達政宗。大きく揺れ動いた戦国時代において波乱万丈の生涯を送った武将です。伊達政宗は勇猛果敢な武将でしたが、実は「食」に対しても非常にこだわりがあったようです。
戦国武将一の食通
戦国武将の代表格といっても過言ではない伊達政宗。「奥州の虎」として恐れられていましたが、その反面で、戦国武将一の食通でもありました。単に ”食べることが好き” という食道楽ではありません。実際のところ、合戦の時の食糧確保のため、若き時代から食料補給ということに目を向けていました。しかし、これがきっかけとなって「食」の奥深さの虜になってしまい、戦乱の世が終わってからは美食の道を極めていくことになったのです。
グルメに関し、とても研究熱心だった伊達政宗は、自らが台所で料理をしたこともあったそうです。政宗晩年の言行録である『命期集』において、政宗は「ご馳走というのは旬の食材をさり気なく使い、主人自らが調理をしてもてなす事」と言っています。
料理のみならず、能や太鼓といった多くの趣味を持っていた政宗は、様々なことに興味を持ち、一度は自分でやらないと気が済まないタイプでした。このような気性だったことが、世を生き抜く知恵とリーダーシップを生みだしたのかもしれませんね。まさに、食は人をつくるといったところでしょうか。
江戸時代の食文化にも大きく貢献
戦国の歴史を良く知る人たちの間では、伊達政宗が10年早く生まれていたら、天下をとっていたかもしれないと言われています。戦国武将としていち早く諸国の動向を察し、関ヶ原の戦い(1600)の後は、仙台藩の初代藩主となって現在の仙台市の基盤を作り上げたのです。そして伊達政宗は、江戸時代の食文化にも大きく貢献していました。仙台藩では新田開発が積極的に行なわれていて、仙台で収穫されたお米を江戸に送っていたので、仙台から遠く離れた江戸でもおいしい仙台米が食べられたのです。
さらに政宗は、仙台城下に味噌の醸造所も作っています。この日本初の味噌工場から仙台味噌の始まりとなる良質な味噌が誕生し、生産されたのです。豊臣秀吉が朝鮮出兵をした際、他藩の味噌は腐っても仙台味噌は品質も変わらず、味も優れていたそうです。
仙台藩で生産された米と味噌が作り出す食文化は、江戸庶民の豊かな食生活を支えていました。まさに、江戸300年に渡る食文化の基礎を築き、平安な世というご馳走を作り上げたのは伊達政宗だったのかも知れませんね。
食へのこだわりがもたらした長命
名君・伊達政宗は、70歳でその生涯を閉じていますが、当時としては長命と言えるでしょう。長生きができた理由のひとつとして、「食」に対するこだわりがあったからだと言われています。仙台味噌には、グルタミン酸・ビタミン・イソフラボンなどが含まれています。更に宮城にはミネラルが豊富な海の幸もふんだんにあり、その旬の食材を食べることで政宗自身も健康と溢れるほどの活力が維持できたのでしょう。
伊達政宗を見習って、栄養価の高い旬の食材を食べて、元気な毎日を過ごしてくださいね。
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