※ この記事はユーザー投稿です

昭和史の影にこの人あり 明石元二郎ってどんな人?

明石元二郎の肖像(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)
明石元二郎の肖像(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)
 もし当時のヨーロッパに、明石元二郎(あかしもとじろう)がいなかったなら、日露戦争において日本はロシアに負けていた。歴史の舞台には登場することのない、明石元二郎の存在を日本人なら知っておきたいですね。

明石元二郎という人物

 明石元二郎(あかし もとじろう)は、福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として元治元年(1864)に福岡城下の大名町に生まれます。明石家の家格は「大組」で、これは福岡藩黒田家の家中で最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格で、1300石の大身だったそうです。

 明治10年(1877)6月、明石元二郎は陸軍士官学校に幼年生徒として入学します。そして陸軍士官学校(旧陸士6期)を、明治16年(1883)12月25日に卒業。同日には歩兵少尉に任じられています。続いて明治22年(1889)に陸軍大学校(5期)を卒業しました。

ロシア国内の情報収集

 その後の明石元二郎は、ドイツ留学・仏印出張・米西戦争のマニラ観戦武官を経て、明治34年(1901)にフランス公使館付陸軍武官に就任します。そして明治35年(1902)には、ロシア帝国公使館付陸軍武官として、後の首相、田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐのです。

 当時から日本では、ロシア国内における情報の収集を行い、ロシアの反政府分子との接触をするための工作活動が実行中だったのです。首都ペテルブルクのロシア公使館に着任した明石元二郎は、日英同盟による情報協力でイギリス秘密情報部のスパイだったシドニー・ライリーと知り合い、友人となります。

 そして明石はライリーに対し、明治36年(1903)から材木の貿易商に偽装して、旅順で材木会社を開業できるよう依頼します。しばらく貿易活動をした後に、ロシア軍司令部の信頼を勝ち取り、ロシア軍の動きに関する情報や旅順要塞の図面などを得て、イギリスと日本に重要な情報をもたらしたのです。

日露戦争での諜報活動

 日露戦争勃発の明治37年(1904)、日本は駐ロシア公使館を中立国であるスウェーデンのストックホルムに移します。同時に、当時大佐になっていた明石元二郎もストックホルムを本拠として活動。開戦直前の1月、開戦後もロシア国内の諜報活動を継続するようにとの指令があり、更に明石は参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職にも就くことになったのです。

 明石は、ロシアの支配下にある国や地域にある反ロシア運動を支援しつつ、ロシア国内の反政府勢力とも連絡を取りロシアを内側から揺さぶります。

 様々な抵抗運動組織とも連絡を取る明石は、資金や銃火器を提供してデモ・ストライキ・鉄道破壊工作などをサボタージュしていきます。しかし鉄道破壊工作などは失敗するのですが、デモやストライキは先鋭化していき、ロシア軍はそれを鎮圧するために兵力が割引かれ、極東へも派遣がスムーズにできない状況となりました。

日本の勝利に貢献した明石の活動

 日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策した明石元二郎。日本の勝利に貢献することを意図した明石の活躍は、戦後明石自身の著作となる「落花流水」などによって、一般にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになります。

 参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に値する」と評していますし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世においても「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と言って称えた文献もあるんですよ。これら明石が行った謀略活動の成果について、研究者の間の見解はほぼ一致しています。

 なお、「落花流水」や司馬遼太郎執筆の「坂の上の雲」において、次のような話が書かれています。

 明治37年(1904)某日、明石はジュネーヴのレーニン自宅に向かい、会談しています。内容はレーニンが率いる社会主義運動に、日本政府が資金援助するというもの。最初、レーニンは祖国への裏切り行為として拒否をしたのですが、明石はレーニンを説き伏せ、ロシアに送り込むことに成功したそうです。

 その他、内務大臣プレーヴェの暗殺・血の日曜日事件・戦艦ポチョムキンの叛乱などに関与したとなっていますが、歴史家から疑念が示されている点も少ないとか。しかしこれらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていったということは間違いのないところでしょう。

 後にレーニンは、日本の明石大佐には本当に感謝していると言っています。さらに、感謝状を出したいほどであるということも。

ソビエト連邦の指導者「ウラジーミル・レーニン」(出典:wikipedia)
ソビエト連邦の指導者「ウラジーミル・レーニン」(出典:wikipedia)

日露戦争の後

 日露戦争も終わり平常化した日本、大正3年(1914)に参謀次長となった明石元二郎ですが、わずか1年で熊本の第六師団長に転補させられます。これは明らかに陸軍内に「スパイ蔑視」の風潮があったからでしょう。

 同時に情報の重要性を理解していた上層部もおり、情報畑の人材を引き立ててはいたのですが、明石を警戒する空気が根強くあり、結果的に転補という名の更迭となったのでした。単独行動の多い情報の仕事、派閥行動などの環境になかったために情報将校が出世しにくく、情報を軽視する風潮につながったと指摘がされています。

 しかし明石は大正7年(1918)7月に、第7代台湾総督に就任して陸軍大将に。総督在任中は台湾電力を設立したり水力発電事業を推進した他、新たに海岸線を敷設し、鉄道貨物輸送の停滞を解消、さらには日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正し、台湾人にも帝国大学進学への道を開いています。

 そして台湾最大級の銀行、華南銀行の設立も明石によるものなんですよ。また台湾の人たちなら誰もが知っている、八田與一が計画した嘉南大圳の建設の承認をして、建設予算の獲得にも尽力しています。

 台湾総督の次は総理大臣と期待もされていた明石元二郎ですが、大正8年(1919)10月に公務により、本土へ渡航の際、洋上で病を患い郷里の福岡で亡くなりました。

 満55歳、まだまだ若かったですよね。この時の明石の遺言が、

  • 「自分の遺体はこのまま台湾に埋葬するように」
  •  「未だ台湾における使命は終わっておらず、道半ばでの離脱は痛恨の思いである。たとえこの身は死んでも、外敵・災難から台湾人民を守っていく」

との内容でした。

 ということで、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地に埋葬されたのです。

台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)にある碑石(出典:wikipedia)
台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)にある碑石(出典:wikipedia)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早10年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。10年以上前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。