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京都の本願寺はなぜ東西に別れたのか?

 京都に到着して、最初の観光スポットといえる京都タワー。その展望台に上がると、すぐそばにある建物で目に飛び込んでくるのが、2つの大きなお寺。これが東本願寺と西本願寺です。

 この2つの本願寺は、どうして東と西に分かれているのでしょうか? 観光客にとっての素朴な疑問ですよね。実は京都の住人でも知らない人が多いそうです。本願寺が分裂した歴史を探っていくと、権力者の思惑と家族の争いといった、いたって人間的な確執が垣間見えてくるのです。

本願寺の最盛期は戦国時代

 現在16という、数多くの宗派がある浄土真宗。その中でも特に有名なのが、通称西本願寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派と、通称東本願寺の真宗大谷派本山真宗本廟です。実のところこの両本願寺の2派は、特別に主流という訳ではありませんでした。

 本願寺の起源は、親鸞聖人の遺骨が東山大谷から吉水の地に改葬された1272年。しかし親鸞聖人の教えもあり、親鸞の子孫たちは教派の拡大に動きませんでした。そのため、本家である本願寺派より、いわば「分家」とされる宗派の方が大きな教団となっていたのです。

 そこに登場したのが、本願寺中興の祖とされる第8世宗主・蓮如で、それまでの路線を転換し教団を拡大することに尽力します。その甲斐あって本願寺の勢力は相当に大きなものになり、第11世・顕如の時代が最盛期とされています。そうです、織田信長と敵対をしていた戦国時代なんですね。

本願寺分立への第一歩

 時の権力者・織田信長は、宗教そのものを否定はしていませんし、布教は自由としていました。ただ、宗教が経済力と軍事力を併せ持つことには同意していません。そのため、本願寺の力を削ぐ目的で法外な金銭を要求したのです。

 しかし時の権力者を敵に回すなど、安易に拒否することもできません。そんな折、将軍義昭と織田信長の対立が勃発。義昭は武田信玄をはじめ、全国の有力大名に呼びかけて信長包囲網を形成します。顕如は将軍義昭に加勢したため、信長と敵対することになったのです。

 結局この戦いは10年の歳月を要します。強力な織田軍が苦戦をしたのは、各地の浄土真宗の勢力が敵に回ったことや、毛利氏が本願寺の応援に向かったことなどが理由の一つでしょう。特に織田軍が手を焼いたのは、死を恐れない信者たちの存在です。「南無阿弥陀仏」を唱えていれば、死んでも極楽に行けると信じていたんですね。それでも織田軍は、その圧倒的な兵力と最深の武器により優勢となり、事実上の勝利を収めました。

 これを機に本願寺は石山から撤退、顕如は信長の要求を受け入れて紀伊に移ることを決断します。しかしこれに大反発したのが長男の教如で、あくまで徹底抗戦を主張しました。これに怒った顕如は、教如を勘当し、三男の准如を跡継ぎに指名したのです。

 この出来事が、後の本願寺東西分立へと進んでいくことになります。

右往左往した秀吉の裁定

 戦乱から2年後の1582年、本能寺の変で野望を胸に信長は炎の中で自刃します。

 これを機に流れは一変、天下を握ったのが豊臣秀吉でした。このとき、顕如は神妙な態度で秀吉に従います。1591年には本願寺は京都に戻れることとなりましたが、これが現在の西本願寺なんですね。しかし、これまで頑張ってきた顕如は、まもなく亡くなってしまいます。すると秀吉は、勘当した長男の教如を後継者に指名したのです。

 この裁定に対し、兄弟の母・如春尼が弟の准如に肩入れしたため、ついにはお家騒動にまで発展してしまいます。その背景には、教如の嫁とそりが合わず、嫁姑問題もあったとか。結局秀吉は当初の裁定を覆して、准如を本願寺の宗主としたのです。

 本願寺の宗主の決定権を握ることで、その権力を天下に誇示しようとした秀吉の策略も消化不良に終わった感じでしょうか。いずれにしても兄の教如は、またもや本願寺から追い出されることに、なんか気の毒になってきますね。

権力者の思惑に翻弄

 ふたたび時は流れて1602年。秀吉はすでに亡くなり、関ヶ原の勝者となった徳川家康が将軍の地位を手中に収めようとしていました。

 ちょうどその時、追い出されていた教如は家康に取り入って七条烏丸の地を得ることに成功します。まさにこの時、本願寺が東西に分割された瞬間となりました。この七条烏丸に築かれたお寺が、現在に至る東本願寺だったのです。

 このとき、なぜ家康は教如に東本願寺の建立を認めたのでしょうか? 教如を本願寺の宗主にすることもできたはず。秀吉の決定を家康が覆すことで、権力を握っているのは徳川家であるということが世間に知らしめられたのですよね。しかし家康はあえて本願寺を東西に分けることで、強力な勢力を分裂させようとしたのでしょう。将来の徳川政権に対する脅威を排除するという、家康らしい思慮深さが感じられますね。

おわりに

 本願寺は大きな歴史の波に飲まれながら、時には権力者の思惑に振り回され、結果的に東西に分かれました。しかしよく考えると、発端は親子兄弟での争いからであって、そのどさくさにまぎれて権力者が利用したともいえますね。

 宗教といえども所詮は人間の為すこと。本願寺の壮大な歴史も人間ドラマだったといえるのではないでしょうか。そう思うと、一気に身近なことに感じてきますね。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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