【山梨県】甲府城の歴史 縁が深いのは織田家でも武田家でもなく、実は徳川将軍家!

 日本百名城のひとつに数えられる山梨県の「甲府城(こうふじょう)」。甲斐の虎と恐れられたあの武田信玄が利用した城なのかと思いきや、築城されたのは武田氏が滅び、さらに本能寺の変で織田氏の勢力も追い出された後になります。

 今回はそんな甲府城の歴史についてお伝えしていきましょう。

徳川家康の指示により築城開始

 甲府城が築城される前、この場所には甲斐武田氏の一族である一条忠頼の館がありました。

 その館跡に一蓮寺が建立されますが、本能寺の変で混乱した中を徳川家康が鎮めた後の天正10年(1582)には平岩親吉がその一蓮寺を移転させ、縄張りを行い、甲府城築城が開始されました。つまり甲府城築城を命じたのは、武田信玄でも武田勝頼でも織田信長でもなく、徳川家康だったのです。

甲府城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 しかし、豊臣秀吉が天下を統一すると、甲府城完成前に家康は関東へと移封となり、秀吉の甥である羽柴秀勝が甲斐に入国。この間、甲府城建設は中断されます。天正19年(1591)に秀勝が岐阜へと転封となり、替わって加藤光泰が24万石の大名となって甲府城築城を再開しました。

 甲府城が完成したのは、その光泰が釜山で病没し、浅野長政・幸長父子が22万5千石の城主となった文禄2年(1593)のことです。築城開始からおよそ12年の月日が流れています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは浅野父子は徳川方として戦いましたが、慶長6年(1601)に和歌山へ転封となったことで、甲府城築城に携わった平岩親吉が再び6万3千石の城代として入りました。

城番制と甲府勤番

 甲府城は江戸に近いこともあり、将軍家一門が城主を務めるようになります。

 最初は家康九男の徳川義直(25万石)です。ただし義直は慶長8年(1603)に城主になったすぐ後の慶長12年(1607)に清洲へ転封となり、城番制が設置され、幕府の直轄地になってしまいます。

 元和4年(1618)に将軍徳川秀忠の二男である徳川忠長(22万石)が城主となったことで、一時的に直轄地から外れましたが、寛永9年(1632)に忠長が蟄居を命じられ、再度城番制に戻りました。

 新たな城主が誕生するのは寛文元年(1661)の徳川綱重(将軍徳川家光の三男・25万石)で、嫡男の徳川綱重が延宝6年(1678)に跡を継いで城主となりました(25万石)。この時期までは親藩に含まれていたのですが、将軍徳川綱吉との養嗣子縁組によって江戸城へ移ったため、宝永2年(1705)、祖先が甲斐出身の側用人・柳沢吉保が城主となり(15万1千石)、親藩から外れます。

 ちなみにこのとき綱重は徳川家宣と改名して将軍に就任しました。吉保は宝永3年(1706)、城内の曲輪の修復を開始し、殿舎の造営を行うなどして甲府城を整備しています。

 ただし、柳沢氏による統治はわずかな期間にすぎず、享保9年(1724)には、吉保の嫡男である柳沢吉里が大和郡山へ転封となったため、再び幕府の直轄地に戻り、「甲府勤番」が設置されました。甲府勤番は山手組、追手組として1名ずつ就任し、さらにその配下に勤番士100人、与力10騎、同心50人が加わって甲府城警護を行っています。

 しかし、享保12年(1727)には大火によって本丸御殿や銅門を焼失。享保19年(1734)には盗賊に侵入され、公金1400両を奪われる事件も起こりました。それでも甲府勤番は140年以上続き、慶応2年(1866)になってようやく甲府勤番が廃止されて城代が置かれたのです。

甲府市歴史公園として整備される

 甲府城に城代が置かれるようになったのもつかの間のことで、明治元年(1868)には新政府軍の板垣退助が無血入城し、鎮撫府が置かれます。

 山梨県が誕生したのは明治4年(1871)で、その直後の明治6年(1873)には甲府城は廃城となりました。内堀も埋められ、ほとんどの建築物が撤去されています。しかもその城跡に中央線の甲府駅が置かれて城域は分断され、勧業試験場や山梨県庁、県立甲府中学校などが建設されました。

 勧業試験場には葡萄などが栽培され、明治10年(1877)には鍛冶曲輪跡に葡萄酒製造所が設置されています。山梨県の葡萄やワインが有名になっていくのはこの時期からのことです。

 城内が「舞鶴公園」として開放されたのが明治37年(1904)で、大正6年(1917)に県有財産となり、昭和43年(1968)には甲府城跡として県指定史跡となりました。

 「舞鶴城公園」として本格的に事業が着手されたのが平成2年(1990)のことで、発掘調査や整備が積極的に行われ、平成16年(2004)には稲荷櫓が完成。平成19年(2007)には山手御門が完成。そして平成31年(2019)になり、ついに国指定史跡となったのです。

甲府城の山手御門
甲府城の山手御門

あとがき

 徳川将軍家とたいへん縁の深いお城が甲府城です。実際に将軍家宣が城主を務めていた時期もありました。ですから戦国時代の面影というよりも、江戸幕府統治の歴史を感じさせてくれるお城です。

 甲府城の謎としては、天守台跡が残ってはいるものの、天守はなかったという説と天守があったとする説が今なお論議を呼んでいます。はたしてどちらなのか、想像しながら舞鶴城公園を散策してみるのも面白いのではないでしょうか。

補足:甲府城の略年表

出来事
天正10年
(1582)
平岩親吉が城代として築城を開始
天正18年
(1590)
徳川家康の関東移封に伴い、羽柴秀勝が城主となる
天正19年
(1591)
秀勝が岐阜へ転封。加藤光泰が城主となり甲府城の築城を再開
文禄2年
(1593)
光泰が病没し、浅野氏が城主となるとなる。浅野長政、浅野幸長によって甲府城完成
慶長5年
(1600)
関ヶ原の合戦の後、浅野氏が和歌山へ転封。平岩親吉が城代となる
慶長8年
(1603)
徳川義直が城主となり、親藩:甲府藩の政庁が置かれる
元和4年
(1618)
徳川忠長が城主となる
寛文元年
(1661)
徳川綱重が城主となる
寛文4年
(1664)
甲府城の大修理
延宝6年
(1678)
徳川綱豊(家宣)が城主となる
宝永元年
(1704)
徳川綱豊(家宣)が江戸に移り、将軍の座に就く
宝永2年
(1705)
柳沢吉保が城主となる
宝永3年
(1706)
曲輪修復、殿舎造営
享保9年
(1724)
柳沢吉里が大和郡山へ転封、甲府藩は廃止。幕府直轄領(天領)となる。甲府勤番が設置される
享保12年
(1727)
大火により本丸御殿や銅門焼失
享保19年
(1734)
賊が侵入し公金1400両盗まれる(甲府城御金蔵事件)
慶応2年
(1866)
甲府勤番を廃止し、城代を置く
明治元年
(1868)
新政府軍の板垣退助が占領。鎮撫府が置かれる
明治6年
(1873)
甲府城廃城
明治9年
(1876)
残った内城に勧業試験場が設置され、葡萄などの栽培開始
明治33年
(1900)
楽屋曲輪跡に県立甲府中学校を建設
明治37年
(1904)
舞鶴公園として開放される
昭和2年
(1927)
楽屋曲輪跡に県庁を新築
昭和43年
(1968)
県指定史跡となる
平成2年
(1990)
舞鶴城公園整備事業開始
平成16年
(2004)
稲荷櫓完成
平成19年
(2007)
山手御門完成
平成31年
(2019)
国指定史跡となる


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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