芹沢鴨はなぜ暗殺されたのか?その裏にある思惑とは

新撰組の屯所として使われ、芹沢鴨が暗殺された場所でもある八木邸(京都市中京区壬生梛ノ宮町)
新撰組の屯所として使われ、芹沢鴨が暗殺された場所でもある八木邸(京都市中京区壬生梛ノ宮町)
 文久3年(1863)9月16日深夜。新選組局長・芹沢鴨が暗殺された。実行犯は、同じ新選組の土方歳三・沖田総司・山南敬助らである。芹沢はなぜ暗殺されなければならなかったのか。芹沢が殺されることにどのような意味があったのか。今回は、新選組最初の内部分裂ともいえる芹沢暗殺の真相を探ってみた。

芹沢暗殺事件の概要

 新選組隊士・永倉新八が残した『新撰組顛末記』を踏まえ、芹沢鴨暗殺当日の様子を見てみよう。

── その日、新選組は去る8月18日の政変における活躍に対する会津藩からの褒賞を受け、島原で宴会を開いていた。局長の芹沢鴨・近藤勇を始め、副長の土方歳三・山南敬助、副長助勤以下ほとんどの隊士が島原に集まっている。ただ、3人目の局長・新見錦はこれより数日前、いわゆる局中法度に背いた罪で切腹していた。仲間を殺された芹沢ではあるが、その心中はわからないまま相変わらず大酒を飲んでいる。近藤も機嫌よく芹沢に酒を進めていた。

相変わらず酒癖の悪い芹沢。次第に目がすわり、機嫌が悪くなってくる。やがて芹沢は、腹心の平山五郎、平間重助を伴って八木の屯所へ帰った。平山は桔梗屋の小栄を、平間は輪違屋の糸里を連れ、芹沢は愛妾お梅を相手に飲み続ける。そこへ土方もやってくると、珍しくしきりに芹沢に酒を勧めた。必然、土方以外の3人は泥酔し、寝入ってしまう。

それを見届けた土方は、沖田、山南、原田左之助(諸説あり)を呼び、4人で一気に襲い掛かった。芹沢は、飛び起きて脇差で戦ったが、ついに斃れる。共に寝ていたお梅も斬殺。平山五郎も殺されたが、平間重助と糸里、小栄は、逃げおおせている。芹沢一派が一掃された新選組は、近藤一派が支配することになる。 ──


 と、これが一般的に伝わっている芹沢鴨暗殺事件である。おそらく暗殺当日の様子は、多少の違いはあれ、この通りだと考えられる。ただ、芹沢が暗殺された理由については、諸説ある。

芹沢鴨とはどんな人物

 芹沢暗殺の理由について述べる前に、芹沢鴨という人物について少し紹介しておこう。

芹沢鴨の経歴

 芹沢は、水戸藩領の玉造村芹沢の郷士・芹沢家に生まれ、のち神官の下村家の養子となり、下村嗣次と名乗っている。神道無念流免許皆伝の腕を持ち、水戸尊王攘夷過激派の一員として活動するようになったとされている。

 万延2年(1861)には、佐原(現・千葉県香取市周辺)において、村名主や旅籠から、攘夷を名目に1,000両もの金を押借りするなど、目に余る狼藉を働いていた。こののち下村は捕縛され、1年10か月ほど獄中生活を送っている。

 特赦で釈放されたのちに江戸へ現れた下村は、名を芹沢鴨と改めて清河八郎発案の浪士組に名を連ねた。上洛した浪士組は、清河の策により、再び江戸へ帰ることとなるが、芹沢一派と近藤一派ほか数名は京に残った。それがのちの新選組である。

芹沢の起こした事件

 芹沢は、会津藩お預かり壬生浪士組の筆頭局長となるが、隊としての活動よりもさまざまな騒動を起こしたことで知られている。主な事件を並べて見ると次の通りである。

@大坂での力士乱闘事件…新選組の大坂出張中に起こった事件。芹沢の行く手をふさいだ力士を、芹沢が切り捨てた(鉄扇で打倒したとも)ことがきっかけとなり、のちに力士との乱闘騒ぎにまで発展した。

@島原角屋での乱暴狼藉…角屋での対応が悪いと腹を立てた芹沢が暴れまわり、備品を壊しまくったうえ、7日間の営業停止を命令した

@芸舞妓への横暴…芸舞妓の態度が生意気だと、斬り捨てようとしたが、土方・永倉がなだめ、妓の黒髪を断髪するだけにとどめた

 その他、史実には残らない多くの狼藉を働いていたと言われている。そして極めつけは大和屋焼き討ち事件である。

 大和屋焼き討ち事件とは、新選組隊士が芹沢の指揮のもと、生糸が入った大和屋の土蔵に火を放ったという事件だ。近隣の人々をも危険にさらし、新選組の名を貶めるような行為を行った芹沢を、これ以上放っておくことはできないという判断が会津藩から下され、近藤が芹沢暗殺を決断することになった事件だと言われている。

 しかし、芹沢の乱暴狼藉をとがめるなら、新見錦のように局中法度に照らして処断すればよい。それをなぜ暗殺という手段を選んだのか。

本当に芹沢が手を下していたのか?

 これはあくまで仮説であるが、芹沢が主犯となって起こしたと言われている数々の事件のうち、すべてとは言わないまでも、ある程度は嘘が混じっている、もしくは話を盛っているのではないだろうか。

 例えば大坂での力士乱闘事件。そのきっかけは、力士の通せんぼに腹を立てた芹沢にある。これはこれで乱暴だが、その後の力士との乱闘騒ぎでは、沖田、永倉、山南、平山たちも暴れ回っているのだ。そして、その後新選組は、力士側と手打ちをしている。新選組で力士京興行のおぜん立てまでしているほどである。

 大和屋焼き討ちにしても、町年寄へ事前に連絡を入れ、近所の町衆には外に出ないようにと通告している。異国との貿易で利益をむさぼる大和屋を攘夷討ちするという名目を立てていることからも、芹沢が腹立ちまぎれに焼き討ちをしているとは考えられない。まして指揮していたのが芹沢だという明確な史料は発見されておらず、推測の域なのだ。

 もちろん芹沢が大坂や京の商家などで脅迫めいた押借りをしていたという事実はあるが、これも新選組結成当初は芹沢の押借りのおかげで隊の経営が随分と助かっていたという面も見られる。おそらく近藤・土方も、ある時期までは芹沢の押借りについては目をつぶっていたのではないだろうか。とすると、芹沢暗殺には、まだ見えていない真の理由があるように思われる。

なぜ芹沢は暗殺されたのか

 芹沢暗殺の実行犯が近藤一派であることに間違いはない。しかし、その動機についてはもう少し複雑なのではないか。1つの理由として考えられるのは、芹沢の過激な尊攘思想である。

芹沢の尊攘思想

 芹沢は、水戸尊王攘夷論を学び、それに基づいた過激な思想を持っていた。つまり「西洋の学問・文化はすべて排除せよ」という極端な排除主義である。この芹沢の尊王攘夷思想については、近藤勇が理解を示していたともとれる出来事がある。

 文久3年(1863)4月中旬、井上源三郎の兄・松五郎が上洛した際、彼が近藤と会っている。その後、松五郎は「近藤は天狗になった」と嘆いているのである。これは近藤が増長して偉そうな態度だったというとらえ方が一般的なのだが、「天狗党」の「天狗」、つまり水戸天狗党のような思想に染まってしまったことについて嘆いているのだとも考えられる。

 もしそうだったとしても、近藤には芹沢ほどの過激さはなかった。新選組の軍備についても、銃や大砲は必要だという考えを持っていたし、新選組を芹沢のように極端な国粋主義の集団にするつもりはなかっただろう。だが、近藤以外の試衛館メンバーは、過激な思想を持つ芹沢に新選組を仕切られるのでは?という危機感を持っていたかもしれない。そこで会津藩という存在が大きく浮かび上がってくる。

会津藩と新選組

 会津藩は当初、尊攘浪士との話し合いによって、お互いを理解しようとしていた。しかし、過激浪士にそのような態度は通用せず、次第に彼らを鎮圧する方針へと変換、その最前線にいたのが新選組である。

 だが、芹沢鴨はどちらかと言えば過激浪士と同じような思想でもって行動していた。会津藩にとっては、芹沢の行動以上に彼の思想そのものが危険であった。もしも新選組が芹沢の思想に染まってしまえば、会津藩と共に尊攘浪士を鎮圧することなど不可能となってしまう。

 会津藩には、藩の方針に従って戦う部隊が必要だった。同じ尊王攘夷思想を持っていても幕府を尊重し、過激な思想に走っていない近藤なら会津藩に従ってくれる。近藤を邪魔する芹沢は排除しなければならない。

芹沢は会津藩と新選組に不都合な存在だった

 新選組にとっての芹沢鴨は、既に存在意義が無くなっていた。芹沢の横暴のせいで、会津藩や世論の批判にさらされ、新選組自体の存亡が危うい状態にまでなりつつあった。

 一方、会津藩ではこれからの過激浪士鎮圧には、自分たちの手となり足となる新選組という存在が必要となっていた。過激な攘夷思想を持つ芹沢は、会津藩にとっても不都合な存在であった。双方の利害が一致したところに、芹沢暗殺という決断が出たのではないだろうか。

 芹沢の乱暴狼藉は、会津藩と新選組にとってはまさに渡りに船。芹沢を排除する格好の口実となった。こうして芹沢鴨は、おのれの悪行のために抹殺された乱暴者・悪者として歴史に名を刻まれた。

あとがき

 よく「勝てば官軍」と言われるように明治政府によって、悪者にされた新選組であったが、彼ら自身も芹沢に対して一方的な情報操作を行っていた。もちろん芹沢の狼藉を肯定するつもりはない。では、芹沢が大酒飲みではなく、人徳のある人物だったらどうなっていただろう。たとえそうだったとしても、彼の過激な思想に変わりがなければ、新選組そして会津藩は、やはり何らかの理由を付けて芹沢を排除していたのではないだろうか。

 動乱の時代の中、芹沢鴨は新選組の結成を後押しするために登場し、その役割が終わるとともに、この世からも消えたのかもしれない。


【主な参考文献】
  • 吉岡孝『明治維新に不都合な「新選組」の真実』(ベストセラーズ、2019年)
  • 歴史群像シリーズ『幕末剣心伝』(学研プラス、1998年)
  • 歴史群像シリーズ『新選組隊士伝』(学研プラス、2004年)
  • 永倉新八『新選組顛末記』(新人物文庫、2009年)
  • 中村彰彦『新選組全史 幕末・京都編』(角川書店、2001年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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