ビールはいつから日本に? ──”とりあえずビール” はここから始まった

 その昔、エジプトかメソポタミア辺りで生まれたビールが、明治の初めころ回り回って東洋の果ての日本までやって来ました。現在でもよく聞く「とりあえずビール!」の声。あれはいつごろ始まったのでしょうか?

日本のビール産業のスタートは「横浜」

 嘉永6年(1853)、黒船に乗ってやって来たペリー提督が、幕府の通訳にビールをご馳走したそうです。どんな味わいだったのでしょうね、「うわっ、苦い」とでも思ったのでしょうか。

 ビール好きの西洋人は、日本にやって来て居留地で暮らしていてもビールを飲まずには居られなかったようです。しばらくは本国からの輸入で凌いでいましたが、やがてそれでは飽き足らなくなり、自分たちでビールの醸造を始めます。

 明治3年(1870)、横浜居留地のウィリアム・コープランドというノルウェー出身のアメリカ人と、エミール・ビーガントというドイツ人が協力して、横浜横手の天沼(あまぬま)に日本初のビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を建てました。

 ここで製造されたビールは「天沼ビール」と呼ばれ、旨かったのでしょうか、上海まで輸出されています。横浜で造られたビールは、国内でも神戸や長崎・函館などの遠隔地には船で運ばれ、日本人はビールの爽快な喉ごしに目覚めて行きました。

スプリング・バレー・ブルワリー跡地、キリン園公園(横浜市中区)に建てられた麒麟麦酒開源記念碑
スプリング・バレー・ブルワリー跡地、キリン園公園(横浜市中区)に建てられた麒麟麦酒開源記念碑

 明治5年(1872)には横浜~新橋間に鉄道が開通し、のちに停車場の売店で洋酒と並んでビールも発売されます。明治32年(1899)には、東京・横浜の両停車場内で食堂の営業が開始され、生ビールが販売されました。

日本産ビールが続々誕生

 日本人も蒸し暑い夏に飲むビールの旨さに目覚め、やがて自分たちで造ろうと考えるように…。明治5年(1872)には大阪で渋谷庄三郎がシブタニビールを、翌年には甲府で野口正章が三ツ鱗ビールを醸造発売しています。その後は各地で続々とビール会社が生まれました。

 明治6年(1873)には早くも『開化の入口』横河秋濤(著)の中で、「身の養生のためには肉やパンを食べて、葡萄酒やシャンパン、下賤の身でもビールを飲むのが良い」と書かれています。この頃にはすでに東京では、ビールの飲める飲み屋や飲食店がありました。

 『明治事物起源』石井研堂(著)によると、上記2社の他に明治20年(1887)までに、テーブルビール・ニッシンビール・ストックビール・アングラビール・信濃ビール・桜田ビール・ライオンビールなどの銘柄が発売されています。

ビヤホール日本第1号店も誕生

 明治32年(1899)8月、東京新橋の橋のたもとに、日本麦酒株式会社が生ビールを提供する『恵比寿ビャホール』を開業します。これが日本初のビヤホールと言われます。工場直送の出来立て生ビールの旨さを味わってもらいたいとのメーカーの思いでした。

『東京風俗志』に描かれた恵比寿ビヤホール(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『東京風俗志』に描かれた恵比寿ビヤホール(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 このビヤホール(当時は「ビャホール」)と言う名前は、開店時に創業者から店名について相談を受けた農商務省商品陳列館長の佐藤顕理(へんり)が名付けたと言われます。この方、本名は重道(しげみち)ですが、アメリカ帰りの自分を自ら「ヘンリー佐藤」と名乗るハイカラな人物でした。

 もっともビャホールは単にビャとホールをくっつけただけの和製英語で、本国人には通じなかったでしょう。しかしその賑わい振りにあやかろうとその後続々とミルクホール・甘味ホール・お汁粉ホールなどが誕生し、なんとかホールブームになりました。日本人は最初から和製英語が得意だったようですね。

 日本麦酒も売り上げを期待したのでしょう。当時の新聞広告に

「常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵いたし置き、最も高尚優美に一杯売仕候間、大方の諸彦にぎにぎしく御光来恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願う」

と謳うなど大層な気の入れようです。

最初から大衆のものであったビール

 ちなみにお値段はジョッキ売りで「売価、半リーテル金拾銭、四半リーテル金五銭」でした。リーテルはリットルの事で、半リットルが十銭ですからそれほど高くはありません。当時の物価だと牛肉100gが5銭、味噌1kgが8銭、盛り蕎麦1人前が2銭くらいでした。

 このビヤホールは当時のハイカラブームにも乗って、たちまち東京中の大評判となります。わざわざ遠くから馬車で乗り付ける客も居て、1日平均800人余りがジョッキを傾けたとか。売り上げも120円から130円と立派に日本麦酒の期待にこたえました。当時の1円は現在の3800円ぐらいですから、1日50万円近くの売り上げがありました。

 ビヤホールは極めて大衆的で、貴賤の別なく楽しめる場所でした。明治32年(1899)の『風俗画報』は次のように伝えています。

「涼みがてら、学生・商人・職人・官吏、あるいは鼻下に髭を蓄えたる紳士の金春・烏森辺りの芸妓を引き連れて鯨飲するあり」

 それまでアルコールと言えば、どぶろくか日本酒、それも熱燗でちびりちびりと飲んでいた日本人には、冷えたビールをグイっと飲む清涼感は堪らなかったようです。日本の蒸し暑い夏には持って来いの飲み物で、ビール人気は瞬く間に列島を席巻し、後続メーカーも次々に名乗りを上げました。

おわりに

 アルコール度も低いビールは気楽に喉を潤せます。まず料理屋・ビヤホールで親しまれ、次第に家庭でも飲まれるようになりました。

 初めの1杯「とりあえずビール」の風潮がでてきたのも、ビールが大衆化して一般庶民に浸透した高度経済成長期の昭和30~40年代のようですね。

 昭和の時代、扇風機に当たりながらコップのビール片手に南京豆をポリポリ、テレビのナイター中継を見る。お父さんの至福のひと時だったでしょうね。


【主な参考文献】
  • 永山久夫『「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み』(河出書房新社、2017年)
  • 鳥越一朗『おもしろ文明開化百一話 ~教科書に載っていない明治風俗逸話集~』(ユニプラン、2018年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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