【群馬県】沼田城の歴史 並み居る戦国大名が争奪戦を繰り広げた要衝
- 2023/08/08
さらに天正18年(1590)になると、この城を含む沼田領問題が小田原攻めの呼び水となっています。今回は戦国争乱の舞台となった沼田城の歴史を、詳しくひも解きながら振り返っていきましょう。
北関東の関門に築かれた沼田城
沼田の地は古くから北関東の要衝として知られていました。ちょうど越後から清水峠・三国峠を越えて関東平野へ入る玄関口にあたり、東へ向かえば会津街道を経て南東北へ繋がっています。また西方面は吾妻を経由して信濃へ通じることから、交通の結節点となっていました。『太平記』によれば元弘3年(1333)、新田義貞は沼田の地でこんな戦略を検討しています。
「沼田荘を要害にして、利根河を前に敵を待ん」
たしかに沼田城を含む一帯は利根川の河岸段丘が崖線となっており、守るに易い地形になっていました。ここに城砦が築かれるのも当然のことでしょう。
さて、この地に初めて築城したのは、鎌倉時代から根を張る沼田氏でした。その12代目にあたる沼田顕泰が沼田城を築いたとされています。
江戸時代に編纂された『加沢記』によると、享禄3年(1530)から足掛け3年で完成させたといい、「3つの星が言い争いながら落ちた初夢」が不吉だったため、幕岩城から沼田城へ移ろうとしたそうです。
ただし、この時期における沼田城の規模や様相は詳しくわかっていません。17世紀半ばに描かれた「正保城絵図」によると、本丸北側に位置する曲輪に「古城」と書かれていることから、ここが沼田氏によって築かれた城の中核では?と想定されています。
また平成5年(1993)から行われたレーダー探査の結果、江戸時代の絵図とは異なる箇所で堀跡が検出されており、やはり沼田氏時代の遺構という可能性が高いそうです。
武田・北条・上杉が奪い合った沼田城
さて沼田城の戦略的価値は、強大な戦国大名たちによる奪い合いによって如実に表れています。沼田氏は天文22年(1553)頃から北条氏に属していましたが、永禄の初めになると長尾景虎(のちの上杉謙信)が越山して関東へ進出してきました。いっぽう沼田顕泰は一族の内紛によって越後へ逃れていましたが、景虎に従うことで沼田城を取り戻し、ようやく復権を果たしています。その後の沼田城は、上杉氏が関東へ勢力を拡大するための拠点として機能しました。
ところが天正6年(1578)に謙信が亡くなった直後、上杉氏の後継者争いとなった御館の乱が勃発します。ちなみに後継者候補の上杉景虎は北条氏政の弟ですから、越後へ通じる拠点・沼田城は再び北条氏の支配下に入りました。
当時、東信濃を拠点とする真田昌幸は甲斐武田氏に従っていましたが、武田勝頼の指示で上野国の吾妻地方へ進出していました。まず同地方の城を落としながら沼田へ迫り、次いで支城にあたる名胡桃城や小河城を攻め落としていきます。そして天正8年(1580)に沼田城が無血開城したことで、同地域は真田氏によって支配されました。
翌年には沼田顕泰の子・景義が、北条方に付いた由良国繁の支援を受けて沼田城奪還を図りますが、真田昌幸の謀略によって謀殺されています。こうして鎌倉時代から続いた名族・沼田氏は断絶するに至りました。
ところが天正10年(1582)になると武田氏が滅亡し、昌幸は頼るべき主家を失ってしまいます。しかし処世術が巧みな昌幸のこと、すぐに織田氏の部将・滝川一益に臣従することで命脈を保ちました。ただし上野一国が一益に与えられたことから、昌幸はせっかく奪い取った沼田城を手放す結果となっています。
戦後、織田信長は上野・信濃・甲斐・駿河を戦功のあった者たちに分け与えましたが、同じく武田攻めに参陣した北条氏政には何も与えませんでした。しかも自力で切り取った上野すら取り上げたのです。
これは北条氏の貢献度がゼロに等しいと信長が判断したためですが、この措置は氏政にとって、中央政権に対する不信感へ繋がりました。これが豊臣政権を容易に認められない姿勢に結びついたのかも知れません。
天正壬午の乱の焦点となった沼田城
さて、武田氏滅亡後も戦乱が止むことはありませんでした。本能寺の変で信長が斃れたことで、武田旧領は戦国大名たちの草刈り場と化したのです。 まず動いたのが北条氏政でした。滝川一益の軍勢と神流川を挟んで対陣し、結果的に北条側が大勝しています。さらに信濃北部からは上杉景勝が、さらに甲斐へ徳川家康が進出し、三者による争奪戦が繰り広げられました。
この時、真田昌幸は独立大名としての道を歩もうとしています。しかし滝川一益が去ったあと、一時的にでも大きな傘の下に入るのが得策です。そこで北条氏に誼を通じて与力となりました。ところが甲斐において徳川と北条の両者が激突。徳川氏が有利な情勢になると、昌幸は節操なく徳川方に転じるのです。
甲斐・信濃をめぐる戦いは徳川家康の七分の勝ちで終わり、北条氏は信州佐久・小県、甲斐郡内を譲ることを余儀なくされました。ただし、交換条件として上野一国の領有を認められています。もちろん真田氏の沼田領も含まれていたことから、昌幸としては絶対に飲めない条件でした。家康が信濃に替地を与えるといっても断固拒否し、やがて上杉景勝に転じるのです。
昌幸は沼田領問題から徳川・北条の両者を敵に回しますが、天正13年(1585)8月の第一次上田城の戦いでは徳川軍を退け、9月には沼田城代・矢沢頼綱が押し寄せる北条軍を撃退しています。その年の冬には豊臣政権へ臣従したことで、改めて真田氏は独立大名として認められます。
なお、皮肉なことに翌天正14年(1586)には家康も秀吉に臣従しています。その際、秀吉の命で真田は因縁の徳川家の与力とされている点は見逃せません。
さて、当時の沼田城の様子ですが、「平姓沼田氏年譜略全」によれば天正11年(1583)に昌幸の子・信幸(のちに信之と改名)が堀や土手を築き、次いで大手門などを普請したとされています。さらに天正14年(1586)には二の丸・三の丸が整備され、沼田統治の拠点として機能しました。
ちなみに慶長2年(1597)に天守が竣工していますが、それは四層五階という壮麗なものだったようです。関東地方で五階の天守といえば、江戸城以外に存在しません。また発掘調査では金箔瓦も出土していることから、秀吉が改めて豊臣政権の権力を誇示しようとした。そんな見方もできるでしょう。
小田原攻めのきっかけとなった沼田領割譲問題
天下統一を目前にした秀吉は、北条に対しても豊臣政権への従属を求めますが、北条氏内部で外交方針が固まったわけではありません。なぜなら強硬派の勢力が強く、和平推進派との間で鍔迫り合いが起こっていたからです。おそらく強硬派の主張は
というようなものだったでしょう。たしかに秀吉はよく戦った相手に対し、寛大な措置に臨み、膝を屈した者には厚遇で臨んでいます。臣従するにしても一度は意地を見せておきたい。そんな風に考えてもおかしくはありません。後世から見れば「楽観的で甘すぎる対応」と言わざるを得ませんが、それは結果論に過ぎません。秀吉から歩み寄りを得るための方便だったのでしょう。
しかし取次になっている徳川家康にしてみれば、これはたまったものではありません。自らの保身のためには北条氏の後ろ盾が必要ですし、失敗すれば秀吉からの信頼も失いかねないからです。
北条氏の曖昧な態度にたまりかねた家康は、「上洛しないのなら、北条氏直の正室になった督姫を返してほしい」とさえ迫りました。これにはさすがに北条氏も重い腰を上げ、天正16年(1588)には和平推進派の北条氏規が上洛し、秀吉に謁見しています。
この時、氏規は長らく懸案となっていた沼田領問題を持ち出し、秀吉に裁定を求めました。おそらく氏規は家中の強硬派を納得させるには、その方法しかないと見越していたのでしょう。もし沼田領が一部でも割譲されれば、それで面子が立つと考えたからです。
翌年になると、北条家臣の板部岡江雪斎が上洛し、改めて沼田領問題を説明しています。そして事情を聞き終えた秀吉は、「沼田領を三分割し、2万石を北条に、残る1万石を真田のものとする」という裁定を下しました。また沼田城は北条氏の領有となり、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が城代となっています。
こうして問題は解決され、いよいよ北条氏が臣従するのかと思いきや、とんでもない事件が起こりました。何と沼田城にいた猪俣邦憲が、真田領にある名胡桃城を奪い取ったというのです。名胡桃城は沼田城から目と鼻の先にあったのです。
この行為は秀吉が発した惣無事令に違反するものであり、豊臣政権に対する挑戦とみなされてもおかしくありません。激怒した秀吉は、ついに北条氏の征伐に踏み切り、沼田領問題は小田原攻め(1590)の大きなきっかけとなりました。とはいえ、秀吉サイドによる謀略という可能性も否定できないでしょう。なぜなら名胡桃事件が起こる二週間前に、秀吉は「関東陣軍役の事」と諸大名に出陣を通告しており、長束正家を兵糧奉行に指名して物資の集積を命じているからです。
秀吉が真田昌幸に命じて、北条側が先に手を出すように仕向けた。そんな意図が見え隠れするのは気のせいでしょうか。いっぽう北条サイドは「上州名胡桃のことは下知にあらず」と弁明していますから、やはり大きな陰謀のあった形跡がうかがえるのです。
その後の沼田城
こうして北条氏は実質的に滅亡を遂げましたが、最後に沼田城のその後をご紹介しましょう。城は真田信幸に与えられることとなり、大規模な改修が行われました。普請は慶長17年(1622)まで続けられ、同時に城下町も並行して整備されたようです。
そして関ヶ原の戦い(1600)で東軍に味方した信之は、元和2年(1616)に上田城へ移り、沼田城は長男・信吉が城主となりました。ところが沼田藩として独立したものの、天和元年(1681)になると藩主・真田信利が職務怠慢の理由から改易となり、城は幕府によって破却されてしまいます。
城としての機能を取り戻したのは、約20年を経た元禄16年(1703)のこと。本多正永が沼田藩主として任じられ、幕府からの借財によって沼田城はようやく再建されました。とはいえ完全な復興は難しく、三の丸に陣屋を建てる程度だったとか。その後、沼田藩は黒田氏、土岐氏が藩主となり、明治維新まで続いたといいます。
おわりに
戦国大名をめぐる争奪の舞台となった沼田城ですが、実は「真田の城」と呼んでもおかしくありません。もちろん真田昌幸が領有したという点もそうですが、城の周囲には真田氏にまつわる多くの史跡が残されているからです。例えば、沼田藩2代藩主・真田信吉が鋳造を命じ、時報に用いたという城鐘が沼田市歴史資料館に展示されていますし、真田信之の正室・小松姫の墓は城下の正覚寺にあります。また、天正8年(1580)に真田昌幸が出陣する際に祈願して以来、代々尊崇を集めたという戸鹿野八幡宮も隠れた史跡スポットでしょうか。
とかく信州上田城に目が向きがちなのですが、昌幸はじめ真田一族が守り抜いた沼田城も、ぜひ注目して頂ければと思います。
補足:沼田城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天文元年 (1532) | 沼田顕泰が沼田城を築き、幕岩城から移る。 |
永禄3年 (1560)頃 | 上杉謙信(長尾景虎)が関東へ進出し、沼田城が上杉氏に帰属する。 |
天正6年 (1578) | 謙信の死によって御館の乱が始まり、沼田城は北条氏邦の支配下に入る。 |
天正8年 (1580) | 武田家臣・真田昌幸によって藤田信吉が降り、沼田城が無血開城となる。 |
天正9年 (1581) | 沼田景義が沼田城奪回を計るも、昌幸の謀略で伯父の金子美濃守らに殺害される。 |
天正10年 (1582) | 武田氏滅亡。滝川一益に城を明け渡すも神流川合戦で敗戦。再び沼田城は真田氏の支配下に入る。 |
同年 | 天正壬午の乱起こる。和睦ののち、北条氏が上野の領有を認められる。 |
天正11年 (1583) | 真田信幸によって沼田城の防御が強化される。 |
天正13年 (1585) | 第一次上田城の戦い。 |
同年 | 沼田城代・矢沢頼綱が北条軍の攻撃を撃退する。 |
天正14年 (1586) | 沼田城の二の丸・三の丸が整備される。 |
天正17年 (1589) | 豊臣秀吉による沼田領裁定の結果、沼田城は北条氏の領有となる。 |
同年 | 猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を奪取。小田原攻めのきっかけとなる。 |
天正18年 (1590) | 北条氏が屈服。沼田城は再び真田氏の支配下に入る。 |
慶長2年 (1597) | 四層五階の天守が完成。 |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の合戦が起こり、真田信之は上田領と合わせ9万5千石の大名となる。 |
元和2年 (1616) | 信之が上田へ移り、沼田城主を信吉に譲る。(沼田藩が発足) |
天和元年 (1681) | 藩主・真田信利が改易となり、翌年に沼田城が破却される。 |
元禄16年 (1703) | 本多正永が沼田藩主として入封。沼田城が再建される。 |
明治6年 (1873) | 沼田城が廃城となる。 |
大正5年 (1916) | 久米民之助が私財を投じて城跡地を購入。公園として整備する。のちに沼田町に寄付される。 |
平成29年 (2017) | 続日本100名城として認定される。 |
【主な参考文献】
- 西野博道『関東の城址を歩く』(さきたま出版会 2001年)
- 伊東潤『実録 戦国北条記』(エイチアンドアイ 2014年)
- 飯森康弘・清水豊ほか『ぐんまの城30選 ~戦国への誘い~』(上毛新聞社 2016年)
- 堀内泰『信州上田軍記』(ほおずき書籍 2015年)
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