秀吉は何故、信長のもとで立身出世を遂げることができたのか?

 羽柴秀吉と織田信長。この二人は戦国時代に活躍した乱世の英雄であり、同時に厚い信頼関係で結ばれていたとされています。各種創作においても二人の関係性をクローズアップしたものが非常に多く、二人の人物に関する基礎知識は国民の教養といっても差し支えないほどです。

 秀吉が天下人になる過程において、信長の家臣時代におけるスピード出世があったという事実ははずせません。そこで、本コラムでは秀吉と信長の関係性に焦点を当てながら、秀吉の出世の秘密を探っていきたいと思います。

信長と秀吉の生い立ち

 秀吉の出世の秘密を探る前に、まずは秀吉と信長の生い立ちについてみていきます。その理由としては、この生い立ちに秀吉の立身出世のポイントがいくつも存在するからです。

秀吉の生い立ち

 秀吉の生年については諸説ありますが、おおむね天文5~6年(1536~37)であるというのが一般的な見方です。

 秀吉が貧しい身分の出であったというのは有名な話ですが、父が織田信秀(おだのぶひで。信長の父親)の足軽を務めていたという事実から、百姓とはいえ、ある程度安定した身分であったと推測できます。

 しかし、天文12年(1543)に父が没すると秀吉は寺に入れられ、家に帰還したのちも父の遺産を受け継ぎ、再度家を出て針売りや草履売りをしながら放浪していました。このあたりは江戸時代初期に執筆された『太閤素性記』に詳しい様子が描かれています。

 また、秀吉は放浪の末に今川氏の臣下である松下加兵衛という人物に仕えたとされますが、才覚を発揮した秀吉を疎んじた先輩たちの妬みを買い、18歳までにはそこを去ったと伝わっています。

 実のところ、信長に仕える前の秀吉については、一次史料にほとんど記載がありません。このため、上述した内容の細かな点まで真実とは断言できませんが、少なくとも低い身分の出身で苦労を重ねていたという一般的なイメージに関しては概ね真実のようです。

信長の生い立ち

 次に織田信長の生い立ちをみていきます。

 生年については諸説ありますが、一般的には天文3年(1534)とされています。守護の斯波氏が力を失い、混沌の様相を呈していた尾張国(現在の愛知県西部)に生まれた信長は、否応なしに戦国の世を渡り歩いていくことを求められました。

 父・織田信秀は優秀な武将であったと伝わっていますが、美濃斎藤氏と駿河今川氏に挟まれた立地では天下を取るまでには至らず、信長が家督を継いだころの尾張は、大国に囲まれた不安定な中堅国家の一つに過ぎませんでした。

 信長の生まれた織田家はいくつもの分家が乱立し、そこでの権力争いも彼に与えられた課題の一つでした。実際に、実弟の信勝が信長の家督継承権を虎視眈々と狙っていたのは事実のようです。

織田氏の略系図
※参考:織田氏の略系図。信長の家柄「弾正忠家」は、尾張守護代の清須織田氏に仕えた清須三奉行の一角にすぎなかった。

 また、信長青年期の「大うつけ伝説」については、良質な史料による裏付けがないのも事実です。『信長公記』などでは「大うつけ」であったことに言及こそされていますが、どこまでが真実の姿なのかということはハッキリと分かりません。

 いずれにしても、これらの伝聞から分かることは「信長が幼少期から高く評価されていたわけではない」ということぐらいでしょうか。



秀吉と信長の出会い

 こうしてお互いに苦労を重ねていた秀吉と信長は、概ね天文23年(1554)ごろから主従関係が構築されたと推定されています。ただし、秀吉と信長が出会った時期については確かな文献がなく、その部分については詳細を指摘することが難しいというのが現状です。

 二人の出会い方に関してもいくつか説がありますが、有力な史料がないためこれも確かなことは分かっていません。ただ、『太閤素性記』では知人の紹介で信長の草履取りとして召し抱えられたという説が紹介されており、先行研究ではいくつかの説の中でもっとも妥当な出会い方である、と言及されています。

 いずれにしても、少なくとも桶狭間の戦いが勃発する永禄3年(1561)までには信長に仕え、無名の一武将として同戦に参加していたと推測されています。


秀吉の出世過程

 こうして信長に仕えることとなった秀吉は、急速な出世を遂げていったと考えられています。

 『太閤記』によると、清須城の城壁修理や合戦の練習で信長に高く評価されたなど、さまざまな逸話が紹介されています。もちろん、このあたりの逸話については真実かどうかを検証するということは難しいです。しかしながら、これだけ身分の低い秀吉が瞬く間に立身出世を遂げた背景には、それ相応の働きがあったと考えるのはもっともでしょう。

 実際、永禄11年(1568)に発給された文書の署名欄では、すでに丹羽長秀ら宿老クラスの家臣と同格に扱われていた形跡が散見されます。この出世スピードは尋常なものではなく、コネがないとすれば、極めて優れた才覚を発揮し、かつ、よほど信長に気に入られたという可能性以外は考えにくいです。

 また、秀吉が信長の家臣として確固たる地位を築いたきっかけは、美濃攻略にともなう墨俣城(現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣)の築城による功だという見方がなされています。

墨俣一夜城歴史資料館
現在、墨俣城跡は公園として整備され、大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられている。

 秀吉の逸話を紹介する際に必ずといっていいほど取り上げられる「一夜城伝説」が完全に真実であるとは考えにくいですが、複数の史料で築城に関する何らかの功があったという記載は一致しています。そのため、少なくとも美濃攻略に大きな貢献をしたという点に関しては信頼してもよさそうです。

 こうして信長家臣として一目置かれるようになった秀吉は、その後も金ケ崎の退き口や中国大返しなどの逸話で知られるように才覚を最大限に発揮し、やがて天下人として名を馳せることになるのです。

秀吉の立身出世のワケは?

 さて、ここまで秀吉と信長の生い立ちや出会い、そして立身出世までの過程を紹介してきました。こうして内容を概観すると、秀吉の出世がいかに劇的なものであったかよくわかるのではないかと思われます。

 では一体何故、秀吉はこれほど急速に出世を遂げることができたのでしょうか?

 この考察に関しては「信長が秀吉を気に入っていたから」というような内面的分析にとどまらず、信長や秀吉を取り巻いた周辺の環境や生い立ちを含め、多角的な視点からの分析を取り入れて、考えていきたいと思います。

ワケ1:秀吉の優れた才覚

 まず、秀吉側から立身出世の要因を考えると、やはり才覚に極めて優れていたという点を避けては通れません。

 この部分は先ほども触れたので詳しく言及はしませんが、単純に気に入られていたという好みの問題だけでは説明がつかないことも多々あるためです。逸話にあるように草履を温めていたかはわかりませんが、そうした機知に富んだ発想ができる人物であったことは間違いありません。

ワケ2:信長が構築した特有の主従関係

 もう一つの要因として信長家臣には新参の武将も多く、何の後ろ盾もない秀吉であっても才覚があれば渡り歩いていける状況が彼を助けたのは間違いありません。

 実際、秀吉には譜代の家臣が極めて少なく、譜代がいない際にしばしば家臣として重用される縁戚者すらも決して多いとは言えませんでした。こうした状況で秀吉が「お家騒動」に巻き込まれでもすれば、後ろ盾が頼りないのは明らかです。

 ただ、信長が従えた織田家は明確な主従関係と中央集権が完成された近代的システムを構築できていました。このため、守護から転身して戦国大名になった家にしばしばみられる「強大な権力を持つ家臣が複数存在する」というようなことはなかったのです。

 信長の評価が家内の評価に直結したことで秀吉の身は守られていたと考えられます。

ワケ3:信長のお気に入り

 まず、通説としてイメージされがちな「信長が秀吉を気に入っていたか」という点に関しては、間違いなく事実だと考えられます。

 信長は好き嫌いが激しい人物であった一方、個々人の能力を重視して家臣を厚遇する傾向にありました。そのため、人柄と能力のどちらがお眼鏡に叶わなければこれほどの出世は考えられなかったでしょう。

ワケ4:二人の生い立ち

 冒頭で秀吉と信長の生い立ちに触れましたが、これが秀吉の立身出世に大きな影響があると考えられます。

 そもそも、信長が能力重視で家臣を選定したという点も、彼の希望というよりは「そうせざるを得なかった」という背景があります。実際、信長誕生当時の織田家や尾張国は混沌としており、親兄弟や家臣同士が対立しているという有様でした。信長はこうした背景をもっていた尾張国を統一しますが、その過程で多数の家臣や兄弟と対立していたのが実情です。

 したがって、信長が新参者を重用した理由には「旧来の家臣や家族を信用できなかった」という後ろ向きな動機も関連していると推測できます。この点は「信長の人材登用センスが優れていた」ために実力主義の様相を呈していたと考えられがちですが、それだけではないと筆者は分析しています。

 さらに、信長は猜疑心が強い人物だったとされています。育った環境を考えると、それもやむを得ないかもしれませんが、何度も家臣の裏切りに遭いながらそれを許すこともあった信長はただ者ではなかったのでしょう。

 こうした信長が抱えていた事情は、間違いなく秀吉の立身出世に良い影響を与えたと考えられます。実際、明智光秀や秀吉など、信長に重用されていた家臣たちには仕えた当初、彼との「縁」によるつながりはほぼ皆無でした。

おわりに

 信長にしてみればむしろ「全くの他人」のほうが信頼できたのかもしれません。秀吉の出世は「高い身分の出ではないのに実力で出世した」という側面だけでなく、「高い身分の出ではないからこそ出世できた」という見方も成立するのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』(中公新書、2017年)
  • 藤田達生『天下統一:信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(中央公論新社、2014年)
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、2010年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。