光秀と秀吉 ~明暗を分けた信長の2人の家臣を徹底比較!

明智光秀と羽柴秀吉。どちらも織田信長に仕えた家臣ですが、たどった未来はまるで正反対のふたり。信長を討った光秀は秀吉によって滅ぼされ、秀吉はそれを機に勢いをつけてそのまま天下人へ。秀吉自身も結局は主君である織田家の力を削いでしまったという側面があり、実は本能寺の変自体、黒幕は秀吉なのでは?と言われたりしますね。

明暗がはっきりと分かれてしまった光秀と秀吉ですが、意外と共通点は多いようです。ふたりの運命を分けたのは何だったのか。そのヒントとして、光秀と秀吉を比較してみましょう。

スタート時は大差なし?生い立ちについて

秀吉は農民から天下人にのし上がった異例の経歴の持ち主として知られていますね。

光秀については、織田の家臣であるほか将軍・義昭に仕えた幕臣という側面があり、一見すると生まれながらにエリート街道まっしぐらか……と思ってしまいそうになるのですが、そうではありません。

光秀も「武士の生まれである」ということはわかっているものの、父親の名前もはっきりとはわからない。そんな出自の持ち主なのです。

「土岐明智氏」出身だが長い牢人生活を送った光秀

光秀の出自にはいくつかの説がありますが、もっとも有力なのが「土岐明智氏」説。実際はさらにその庶流の生まれであり、明智城を拠点としていたとされています。

この部分だけ見ると「城持ちの武士の生まれなら、秀吉とは比べ物にならないじゃないか」と思うかもしれませんが、この後が大変だったのです。

光秀がいたとされる明智城は斎藤竜興に攻め滅ぼされ、命からがら逃げのびた光秀は諸国を放浪する牢人生活へと突入します。その間の暮らしが貧しかったことは、光秀の妻・煕子が髪を売って客人をもてなしたという逸話からもわかります。

その後、朝倉義景に仕えたとか、細川藤孝の家臣となっていたとか、いくつか説がありますが、あまり詳しい史料はありません。それ以前は上記のとおり、なかなかに辛い青年期を過ごしたものと思われます。


足軽の子・秀吉

一方の秀吉はというと、尾張出身で農民の生まれという説が有名です。足軽の木下弥右衛門の息子とも言われていますが、その父の出自についてもよくわかっていません。木下という姓自体、妻のおねの方の姓ではないかという説もあります。

光秀同様、信長に仕える以前については信憑性のある史料に乏しく、どんな人生を歩んできたのか、どういう活動をしていたのかはっきりしません。一説によれば、今川氏の家臣・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えていたとされています。


光秀、秀吉どちらも若いころに放浪していたということ。信長の家臣となる以前の史料がとても少ないことなど、両者の共通点は多いのです。言ってみれば、どちらともパッとしない身分でした。ただ、信長の家臣を見てみると、秀吉の最大のライバルと言われる柴田勝家だって出自はよくわかっていません。

鎌倉・室町時代の武家社会とは異なり、この時代は「家」よりも「力」でのし上がる時代です。とくに信長の家臣団はそれが顕著で、信長が家柄よりも能力や人物を見ていたことがよくわかります。

性格

秀吉は天性の人たらし。光秀は当時の武将としては教養深く、生真面目で慈悲深い。ドラマなどで特徴的に描かれるのはこういった性格ですよね。どちらもいい面として強調されています。

第三者から見て

では、第三者から見てどうだったのか。信長と親しく付き合っていたルイス・フロイスの『日本史』には、ふたりの人物評があります。

それによると、実はどちらも高評価ではありません。光秀は謀略を得意としていて狡猾で冷淡。人を欺く術を持っていた。秀吉については、優秀だが気品がない。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。家臣だけでなく外部の者たちにも嫌われていた。

容赦のない酷評っぷりです。フロイスは親・信長であったため、織田を排除していった光秀と秀吉をよく思っていないとはいえ、ほぼ外野にある外国人宣教師がこう評したというのはとても興味深いものです。

女性関係

女性関係については対照的ですね。秀吉の女好きはとても有名で、特にお姫様好きだったとか。

お市の方に想いを寄せていたというのはどうも後世の創作と見たほうがよさそうですが、側室は淀殿をはじめ、前田利家の娘の加賀殿など、武将の娘が十数人並びます。

先ほど紹介したルイス・フロイスによれば、300人以上の女性を囲っていたとされています。フロイスから見るとそれはとても異様に映ったのでしょう。こんなふうに述べています。

「歳すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振る舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取っているかのように見えた。この極悪の欲情は、彼において留まるところを知らず、その全身を支配していた」

秀吉はとにかく美女にしか興味がなかった。あの男色が盛んだった武家社会で、秀吉は一切その気がなかったというのも珍しいですよね。

浮気癖がひどく、正妻のおね(ねね)はいつもやきもきさせられていたようです。そのことを信長に相談し、信長が夫婦喧嘩の仲裁に入ったというエピソードはよく知られています。

光秀はどうだったかというと、正妻の煕子ひとすじだったといいます。煕子の父は結婚前に疱瘡にかかって痘痕が残った煕子の代わりに妹を嫁がせようとしましたが、光秀は「容貌の美しさよりも心の美しさが大事」と煕子を妻にしたという逸話は美談として有名。

また、長い放浪生活の中で支えてくれた煕子に恩を感じ、生涯側室は持たないと決めたと言われています。



織田家中において

連署状や金ヶ崎の戦い

奇しくも、有力な史料に登場するのはふたりともだいたい同じ頃です。信長が将軍・義昭の上洛に同行した翌年の永禄12年(1569)のこと。ふたりは信長の家臣として連署状を書いており、このころにはほぼ同じ立場にあり、京都での政務にあたっていたことがうかがえます。

また翌年の金ヶ崎の戦いでは、浅井・朝倉両軍の挟み撃ちに遭いながら光秀と秀吉が殿をつとめて大きな功績をあげています。

出世は光秀のほうがわずかに上

ライバルと言われたふたりの出世はどちらが先なのか。

光秀が信長から近江国の志賀郡を与えられて坂本城主となるのが元亀2年(1571)のこと。秀吉は2年遅れて、天正元年(1573)に近江国の長浜を所領として与えられ、長浜城主となっています。

任官は秀吉のほうが先でした。

天正2年(1574)に筑前守となっており、これは翌年に日向守となった光秀に先んじています。ただ、任官に際して光秀は「惟任」の姓を賜っている。これが秀吉とちょっと違うところでしょうか。それ以降は光秀が畿内を中心に、秀吉は中国方面を中心に攻略していくことになります。

光秀は幕臣でもあり、京都奉行を継続して畿内中心に行政方面で活躍します。一方秀吉は中国にあった強大な毛利との対戦に力を注ぎ、軍事面で活躍。

並べてみるとどっこいどっこいな印象ですが、信長に仕え始めた時期が違う(光秀がだいぶ遅い)ことを思えば、光秀はとんでもないスピードで出世していった、と考えられます。

信長との関係

織田家中での功績や出世スピードを見ると、両者とも優秀です。

秀吉は家中内でもっとも低い身分からスタートしたにもかかわらず、一気に力をつけていきました。光秀についても、新参者でありながら古参の柴田勝家にも引けを取らない活躍ぶり。実力や功績がなければすぐに切り捨てる「実力主義」の織田家臣団にあって、有能な部下であったことは確かです。

両者とも信長から能力を評価されていたことは疑いようもありませんが、信頼関係はどうだったのか。その点も出世のためには重要なポイントです。

秀吉は信長の子を養子に迎えている

何によって信頼関係を強固なものにするか。手っ取り早いのが縁戚になることです。信長は家臣同士の子らを縁組させ、それぞれの関係をつなぐことに熱心だったとされています。

では、信長自身は家臣とどのように結びついていたか。信長の娘の多くは縁のある武将や家臣の室となっているのですが、興味深いのは男子です。

信長の四男が、秀吉の養子となっています。名は羽柴秀勝。ご存知のとおり秀吉は長らく子宝に恵まれず、あとを継ぐ男子はいませんでした。

よって、秀吉を継ぐとしたらそれは信長の子である秀勝となる。この状況は、信長にとっては安心材料となっただろうと推察されます。

家臣の秀吉がどれほど所領を広げようと、ゆくゆくそれを手にするのは自分の子である秀勝だ、という思いはあったのではないでしょうか。

反対に、光秀には信長との縁戚関係はありません。信長は光秀の娘・玉(ガラシャ)と細川藤孝の嫡男・忠興の結婚を進めていますが、それは家臣同士のこと。信長自身とはつながりがない関係です。

信長は光秀には子を養子として送っていない。いわば「血のつながり」がないので、秀吉ほど密接な関係にはなかった、と考えることができそうです。

忠誠心があったかどうかは謎

しかし、秀吉のほうに確かな忠誠心があったかどうかはよくわかりません。本能寺の変以降の秀吉の行動を見ればわかるように、織田の力を削いでいっているからです。

もちろん、信長が生きてさえいれば秀吉自身がそれより上に出ようと思うことはなかったでしょうが、信長の死後、信長の子らに対してはそういう気持ちはなかったのです。

信長の子らをないがしろにしたのは、養子の秀勝にこそ信長のあとを継がせたい、そんな思いもあったのかもしれませんが、本当のところはどうだったのか、謎です。

家臣団の構成

光秀と秀吉の明暗をはっきり分けた戦い「山崎の戦い」においても大事だったのが家臣団です。

なぜ山崎の戦いで光秀は敗れてしまったか。これは「味方になってくれるだろう」と思っていた人々に見限られてしまったことが大きいです。

ただ、本能寺から信長の遺体が発見されず本当に信長が死んだのかどうかがはっきりしなかった。ほかの武将たちが加勢に二の足を踏んだのは、もしかしたら主君を裏切ることになりかねない、という不安もあった。

しかし総合的に見て、たとえ不安材料があっても信長を討った光秀に味方をしてやろうという武将が少なかったこと。この光秀の誤算が勝敗に大きな影響を与えたことは事実でしょう。

光秀だって負けるとわかっていて信長を討つなんていう無謀な真似はしなかったでしょうから、自分の持つ勢力がどれくらいかを頭に置きつつ、「いける!」と思ったから行動に出たはず。光秀の援軍要請を断った武将として有名なのは、細川藤孝と筒井順慶です。



このふたりは光秀の与力であり、かつ縁戚関係。文化面での交流も深かった。公私ともに密接なつながりを持っていた人物でした。

光秀にとっては、ふたりとも自分の部下で友人だった。しかし、ふたりにとってはそうではなかった。少なくとも、友人ではあっても光秀の忠実な家臣ではありませんでした。

「与力」というのは信長から光秀に与えられた家臣ですが、簡単に言えば「あげる」というより「貸す」という感覚に近い。信長の持ち物を光秀に「管理させている」に過ぎなかったのです。

筒井順慶は一度は光秀の要請に応えていますが、細川藤孝ははっきりと拒絶の意思を示しました。信長を弔うといって出家した。あくまでも「自分の主君は信長だ」と立場を示しています。

織田家中における光秀と秀吉の違いを見るとき、この本能寺の変後の関係性が家中内での立場をよく表しているように思うのです。

光秀は旧幕臣や山城衆が中心

光秀の家臣団について説明すると時期別に細分化できるのですが、山崎の戦いで明智軍に属しているメンバーを簡単に紹介すると、「明智一族衆」「丹波衆」「山城衆」「旧幕臣」あたりが目立ちます。

それをよくよく見てみると、光秀の親戚と、京都周辺の人々、また義昭に仕えた旧幕臣たち。特に旧幕臣や山城衆なんて、光秀が信長を介さず関係を持っていた人々とも言っていいでしょう。

信長の家臣となってから築き上げてきた家臣団ですが、実のところ信長とはあまり関係ない面々が多い。旧幕臣連中を従えているなんて、ほかの織田家臣団にはなかなかない特徴です。


秀吉は近江衆が中心

では秀吉はというと、こちらは一族以外で目立ったのは近江衆です。秀吉が長浜城主となってから仕え始めた小姓たちや、もともと長浜を治めていた浅井長政の旧家臣たちも与えられました。

石田三成のような仕官してきた小姓はともかく、浅井の旧家臣らはもちろん信長を介して与えられた家臣といえます。

織田家中の面々にとって光秀はかなり後から仕え始めた新参者。そしてその下にいる人々も、どちらかというと「よそ者」っぽい。

ルイス・フロイスは光秀が織田家中では嫌われ者だった、なんて言っていますが、嫌われているというかいつまでも「よそ者」として扱われていたのではないか。そんなふうにも思えます。

本能寺の変後に信長の家臣たちが光秀に手を貸さなかったのも、織田家中の仲間内で信頼関係がまったく構築できていなかったのがひとつの理由ではないでしょうか。

対するに、山崎の戦いにおいて羽柴軍には信長の古くからの家臣・池田恒興や丹羽長秀、信長の子である織田信孝らが属していることからも、両者の立場の違いが見てとれます。

最後に光秀に味方したのは、もともと信長とは縁の薄い山城衆や旧幕臣が多かった。そういう状況も、「義昭黒幕説」を補強する理由のひとつかもしれません。

明暗を分けたもの

光秀が負け、秀吉が勝った理由はいろいろあるとは思いますが、単純に能力の差ではなかったように思えます。

信長に仕え始めた経緯や、仕えた年月、織田家中での立ち振る舞い、信頼関係の構築。スタート時の立場こそ大差なかったふたりですが、そこから歩んできた道は大きく異なります。

積もり積もって、生まれた立場の違いが明暗を左右したのではないか。そのように思うのです。



【参考文献】
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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