寺子屋とは 七夕に天神様参り… 勉強だけじゃない。楽しい行事もあった!

 江戸時代の優れた初等教育システムとして知られる寺子屋(てらこや)。当時の初等教育の就学率・庶民の識字率はおそらく日本が世界一です。それを支えた寺子屋とはどのようなものだったのでしょうか。

18世紀の教育爆発

 日本では18世紀から教育熱が一気に高まり、寺子屋の数も増え、これを日本史のほうでは「教育爆発」と呼ぶそうです。その背景にあるのは幕府の文書主義で、大切な決め事はもちろん、お触れなど庶民向けの通達も文書を介して行われました。口頭では行き違いも起きますからね。文字で書き留めて置こうってわけです。

 大事なお触れが書かれた辻に立つ高札も、文字が読めなければ話になりません。江戸時代は庶民階級の訴訟が結構多かったのですが、訴えも原則は文書で提出しなければ受け付けてもらえません。年貢を納めるときも領収の目録を渡されますから、農民も文字が読めて計算も出来なければ村役人に胡麻化されっぱなしです。商人は利子や売掛金の計算が必須ですし、金を借りるのにも、田畑や時には娘を売るにも証文を交わします。

 これらの文書は「御家流(おいえりゅう)」と言う書体で全国統一され、徳川幕府の支配が及ぶ地域内、北は蝦夷地から南は琉球まで通用しました。民間の証文にも「御家流」が使われましたから、少なくとも社会生活を送るうえで、この文字は読めねばなりません。

 江戸時代は大衆向けの娯楽本が競って発行され、浮世絵にも一文が添えられます。文字が読めねばそれらの楽しみも無くしますが、まだまだ文字の読めない人もいて不便な思いをしたことでしょう。

読み書き算盤

 寺子屋で学ぶのは読み書き算盤と言われますが、具体的にはどのように学んだのでしょうか?

 寺子屋の生徒は「寺子」とか「筆子」と言われ、年齢もまちまち、入門時期もまちまちなので一斉授業形式は取りません。しかし御家流解読が授業のベースにあるので、そこを押さえながら地域色のある教材が作られます。

 赤城山の麓の原之郷村の寺子屋「九十九庵(つくもあん)」では、人名を読んで書けるための教材『名頭(ながしら)』を学ぶことから始まります。これは源・平・藤・橘を代表とする有名な姓氏を列記してあり、まず読んで次は書いてと言うように学んでいきます。

 これが終わると生活圏の地名を覚えるために、近隣の地名を集めた『村名(むらな)』『郡名(こおりな)』へと進み、日本の66ヵ国の名称である『国尽(くにづくし)』を習い終えると初級を卒業です。『いろは四十八文字』は学習済みとみなされ、教材にはなっていません。

 上級になると、まず身近なお触れを例文にまとめた『五人組条目』を、次は商人を相手に交渉をすることもありますから、商売で必要な言葉や意味を説明した『商売往来』を、日常生活に則した証文類も理解せねばならず『諸証文手形鏡』も学びます。文字や世間の知識も学べる『世話千字文(せわせんじもん)』や、時には文雅の世界にも触れようと徒然草や万葉集がテキストとして用いられることもありました。

 寺子屋で使われる教科書には「往来物」と呼ばれる一群の書物がありました。往復書簡の形式をとった文章で、『農業往来』や『商売往来』など、その地域に合った物が採用されます。平安時代後期から使われ、江戸時代には版元から出版されたり師匠が手作りしました。

 人気作家も筆を執り、十返舎一九(じっぺんしゃ いっく。1765~1831)は多数の往来物に関わったと言われ、葛飾北斎が挿絵を描いた現代から見ればずいぶん贅沢な教科書もあったそうです。

村の寺子屋、宿題もあり、楽しみな行事もあり?

 このように寺子屋では実生活に則した知識を学びますが、村と町ではおのずから違いも出てきます。

 村の寺子屋では稲作が忙しくなる夏から秋にかけてはお休みになるのが通例です。現代でも昭和の半ばごろまでは、田植え時・刈り入れ時に学校が休みなんてありましたね。九十九庵でも「稽古事は冬・春にすべし。書物は小満より白露まで封じおくべし」と言って、授業は農閑期に行われました。

 また、寺子屋では学ぶだけではなく、各種行事も催されます。現代の学芸会や運動会のようなものですね。九十九庵では一番の行事は天神講です。正月の15日に日の暮れるのを待って教場に集まります。そこには学問の神様天神様の掛け軸が祀られ、筆子たちはその左右に並んで座り、用意されたお膳の御馳走をいただきます。次にお習字で「奉納天満天神」と書き、翌朝は村の天満宮に参拝、昨日書いたお習字を小旗に仕立てて奉納し、学問上達を祈ります。

 七夕も楽しい行事で筆子たちは色紙や短冊を竹に飾り付け、にぎやかに担いで川に流しに行きます。師匠は筆子のために、四書五経などの漢籍や新古今などの和歌集からふさわしい文言を選んで書き出した『星祭りの供』と題した手本を用意して贈りました。

 年明け最初の授業は書初めでしたが、年末に師匠から一人一人に課題が渡されました。自宅で練習でもしたのでしょうか。「一鳥花間鳴」とか「大道直如髪」など漢詩からとったと思われるものが多いのですが、出来の良い子供には「江湖深受向松竹遠還春」と長文が渡されています。

寺子屋書初め(歌川豊国、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
寺子屋書初め(歌川豊国、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

寺子屋は自由開業

 そんな寺子屋はどのように開かれたのでしょう?

 寺子屋の開業に公儀の許認可は不要で、お坊さんや村役・町役・浪人などが師匠となって、寺子屋の看板を掲げればそれでOKです。浪人には世間体も良く、保護者からの贈り物もあって実入りの良い仕事として人気職業でした。

 自宅や寺社の一室を教室とし、ちょっとした村には1つか2つの寺子屋がありました。天保5年(1834)の村の総数は6万3500あまりですから、全国では相当数の寺子屋が開業していたようです。大都市では筆子500人以上を抱える大寺子屋もあったとか、現在の小学校並みですね。師匠も何人も居て組織的に運営していたのでしょう。

 入試などは無く入学金にあたる『束脩(そくしゅう)』と授業料の謝礼を納めれば入門できました。謝礼は寺子屋によって様々ですし、現在の価値に換算するのも難しいのですが、月額で1500円から5000円ぐらいとそこそこかかります。また村では米や野菜の現物納付も可能でした。このほかにも季節季節に餅や酒・饅頭・羊羹、ときにはうどんなどが贈られます。

 決まった入門日もありませんが、2月の初午の日に入門することが多かったようです。入門時には文箱・天神机(学習机)と先輩たちに配るお菓子を持参します。卒業も特に決まりはなく、多くは6歳ぐらいで入門し、5、6年で一通り読み書きが出来ると自然に通うのをやめました。

おわりに

 寺子屋では勉強だけではなく、子供たちの喜びそうな行事も行われていたのですね。子供たちが師匠にじゃれつく絵も残っており、とても良い雰囲気の中で授業が行われていたようです。


【主な参考文献】
  • 河合敦『歴史群像シリーズ、図解・江戸の四季と暮らし』学研/2009年
  • 高橋敏『江戸の教育力』筑摩書房/2007年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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