紫式部の娘「大弐三位」 快活なモテ女の逆転人生
- 2024/07/10
紫式部の一人娘・藤原賢子(ふじわらのかたいこ、999?~1082年)はキャラクターも生涯も母とは対照的です。女房(女官)としての通称は「大弐三位(だいにのさんみ)」。知名度では母・紫式部に遠く及びませんが、どちらかといえばネクラで不器用な紫式部に対し、賢子は恋愛上手で、充実した生涯を送った成功者です。しかも、若いときは厳しい状況に置かれ、そこから幸福をつかみ取った逆転人生。大弐三位こと賢子の生涯をみていきます。
実名「藤原賢子」20歳前後で母と死別?
生まれは長保元年(999)~長保3年(1001)の間。実名は賢子。女房名は「大弐三位」のほか、「越後弁(えちごのべん)」「弁乳母(べんのめのと)」と、いくつか知られています。「越後弁」は祖父・藤原為時の官職、越後守と左少弁から。その後、後冷泉天皇の乳母となったことから「弁乳母」。「大弐三位」は自身の位階、従三位と夫・高階成章(たかしなのなりあき)の官職、大宰大弐から。
いくつもの勅撰和歌集に作品が入選し、多くは「大弐三位」と記されています。高い位階と官職を合わせた女房名が、この女性の成功をよく表している呼称なのです。
父の記憶はなく、後見不在
父・藤原宣孝と死別したのは長保3年(1001)。数え1~3歳のときで、父の記憶はありません。賢子が幼いころ、病気になり、紫式部が詠んだ和歌があります。〈若竹の生ひ行く末を祈るかな この世を憂しと厭ふものから〉
(若竹のようなわが子の行く末を祈らずにはいられない。自分自身は、人生はつらいことばかりだと嫌気がさしているというのに)
この和歌は、家の女房が乳児だった賢子を案じて、まじないをしている状況を詠んだものです。この家は名門貴族・藤原氏の家系であり、賢子の祖父、叔父もそれなりの地位に就いており、このころは貴族らしい生活をしていたようです。しかし、幼くして父を亡くした時点で、いずれ後ろ盾のない状況になることは分かっていました。
母・紫式部の没年は?
母・紫式部の没年は長和3年(1014)説と寛仁3年(1019)以降説があります。賢子は10代か20歳前後です。長和3年説は、藤原為時が任期を1年残して越後守を辞任した理由を紫式部の死去とみます。また、藤原実資の日記『小右記』でも、実資が皇太后・藤原彰子(一条天皇の中宮、後一条天皇、後朱雀天皇の母)を訪ねたときの取り次ぎの女房が「越後守為時女」すなわち紫式部でしたが、長和2年(1013)8月20日を最後にこの女房は姿を消し、この説を補強しているかにみえます。
一方、寛仁3年以降説。同年1月、藤原実資が彰子を訪ねたとき、取り次ぎの女房が往時の訪問を話題にします。この女房を紫式部とすると、この時点では生存していたことになります。長和2年~寛仁3年の6年間の不在は病気だったとも考えられます。
紫式部は父・為時に先立って亡くなったとする史料はあり、寛仁3年1月以降、割と早く亡くなったとも考えられます。紫式部47歳~50歳前、賢子21歳のころでしょうか。
10代で宮仕え、複数の貴公子と恋愛
賢子の祖父・藤原為時は長和5年(1016)4月に出家。叔父・藤原惟規(紫式部の弟)は寛弘8年(1011)に越後で客死しており、後ろ盾として頼れる親族はなく、自立するしかありません。賢子は10代で宮仕えを始めます。母・紫式部が仕えた上東門院(藤原彰子)の女房として出仕。14、15歳のころとも18歳のころとも推定されています。このころの女房名が「越後弁」です。道長次男ら錚々たる顔触れ
賢子は藤原頼宗(道長次男)、藤原定頼(公任長男)、源朝任(宇多源氏)といった貴公子と恋愛します。藤原頼宗は母が道長の側室・源明子で、摂政関白に就いた異母兄・藤原頼通に比べて出世は遅れますが、それでも従一位、右大臣まで上った重要閣僚級の貴族。妻や愛人も何人もいました。賢子より6歳くらい上で、恋愛関係にあったときは既に妻がいました。
藤原定頼は摂関家ほどではないですが、藤原北家名門・小野宮流の貴公子。正二位、権中納言まで昇進しています。賢子より4歳くらい上。ハンサムで音楽、書などでも才能を発揮しました。源朝任は従三位、参議まで昇進。賢子より10歳くらい上。いずれ劣らぬ上級貴族の面々です。
貴公子との和歌のやり取り
こうした恋愛は和歌に残っています。まず、藤原頼宗に贈った和歌。〈こひしさのうきにまぎるゝものならば またふたゝびと君を見ましや〉
(恋しさが憂さつらさによって紛れるものならば二度とあなたに会うでしょうか。紛れないから、また会いたいのです)
心情をストレートに歌った和歌は、紫式部にはないタイプの作品です。
藤原定頼との恋愛を綴った和歌も『新古今和歌集』や『後拾遺和歌集』にあります。
〈春ごとに心をしむる花の枝に たがなをざりの袖かふれつる〉
(春ごとに私が心の色を深くしみ込ませているこの美しい花の枝に、誰が気まぐれな袖を触れて、そのしみ込ませた移り香であなたを嘆かせるのでしょう)
これは梅花添えて贈ってきた定頼への返歌。浮気な相手を揶揄しています。また、定頼との関係が疎遠になったときの和歌もあります。
〈つらからんかたこそあらめ君ならで 誰にか見せん白菊の花〉
(あなたには私に対して冷淡なようですが、あなたでなくて他の誰に見せましょう、この白菊の花を)
27歳での出産が転機 皇太子乳母に
万寿2年(1025)ごろ、賢子は藤原兼隆の女児を産みます。兼隆も正二位、中納言まで上った貴公子。関白・藤原道兼の次男であり、藤原道長の甥です。年齢差は14歳程度。この結婚は長く続かなかったようですが、出産は大きな転機となります。万寿2年に生まれた後朱雀天皇の第一皇子・親仁親王の乳母となります。女房名も皇太子の乳母であることを強調した「弁乳母」に。貴族社会での立ち位置もぐんと上がります。
後冷泉即位で従三位、夫も出世し裕福な晩年
若いころの恋愛関係や藤原兼隆との結婚生活を清算したのか、長暦元年(1037)ごろまでに春宮権大進・高階成章と再婚。皇太子に仕える官僚であり、賢子にとって同僚、職場結婚といったところでしょうか。長暦2年(1038)には高階為家を産んでいます。40歳の高齢出産。賢子は後妻であり、高階成章には先妻との間に男子もいましたが、為家は出世していきます。「欲大弐」夫・高階成章
皇太子・親仁親王は天喜2年(1054)に即位します。後冷泉天皇です。それに伴い、乳母だった賢子は従三位典侍(ないしのすけ)に。従三位は、祖父・藤原為時の正五位下、叔父・藤原惟規の従五位下よりもかなり高い位階です。そして典侍は天皇の女性秘書の次官。長官である尚侍(ないしのかみ)が后妃とされ、典侍が実質的な秘書長官という場合もあります。また、夫・高階成章は大宰大弐に任官。九州地方を統括する大宰府の次官で、地方行政だけでなく軍事、外交も関わる重要な役職です。なお、高階成章は「欲大弐」というあだ名があり、かなり蓄財したとみられます。
この自身の位階と夫の官職から「大弐三位」という女房名が通称となります。
百人一首、歌合、勅撰和歌集にも
大弐三位(賢子)は歌人としても名を馳せ、80歳近い高齢で歌合(うたあわせ)に参加しました。歌合は貴族たちが2組に分かれて和歌を競い合うイベントで、ベテラン歌手が紅白歌合戦に出場したようなものです。また、多くの勅撰和歌集に作品が収録され、母・紫式部とともに「百人一首」にも歌が選ばれています。
〈有馬山猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする〉
(有馬山から猪名の笹原へ風が吹き下ろし、笹の葉がそよそよとそよぐ。そうですよ、そのように私はあなたを忘れるでしょうか。忘れはしません)
会いに来なくなった男性が自分のことは棚に上げて「私のことを忘れたのではと気がかりです」と言ってきたので言い返した和歌です。
与謝野晶子が唱えた『源氏』後半作者説
『源氏物語』後半部分を大弐三位(賢子)が書いた説があり、歌人・与謝野晶子が強く支持していました。前半部分と後半部分で筆致が違い、後半は和歌も少なくなり、悪くはないが、前半には及ばないと指摘しています。第1帖「桐壺」~第33帖「藤葉裏」を第1部、第34帖「若菜上」~第41帖「幻」を第2部、第42帖「匂宮」~第54帖「夢浮橋」を第3部と分け、光源氏が栄華を極め、准太上天皇という人臣ではありえない地位に立つハッピーエンドの第1部が紫式部の作で、愛妻・紫の上が死に向かうなど光源氏に暗い影が差す第2部や、光源氏死後を描いた第3部を大弐三位の作とする説です。
そのため、与謝野晶子は第44帖「竹河」冒頭を「紫(式部)の筆による物語に比べると、はなはだつたない」と訳し、作者の謙遜と解釈しています。ただ、この部分を「紫の上の物語」と解釈する見方もあり、大弐三位の後半作者説は定説とはいえません。
おわりに
紫式部の娘・大弐三位(賢子)は上級貴族出身ながら、後見となる親族に恵まれず、早くから宮仕えをして自立、若いうちは苦労したようです。しかし、皇太子の乳母となったことで転機が開け、若いうちは多くの恋人を持ちながらも結婚後は夫の出世もあり、裕福な生活を送ります。そして80歳以上の長寿を全う。幸せな一生を送り、貴族社会の中では母・紫式部とは違った成功者ともいえます。【主な参考文献】
- 稲賀敬二『王朝歌人とその作品世界』(笠間書院、2007年)
- 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA、2020年)角川ソフィア文庫
- 南波浩校注『紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集』(岩波書店、1973年)岩波文庫
- 与謝野晶子訳『源氏物語』(河出書房新社、1965年)
- 久保田淳、平田喜信校注『後拾遺和歌集』(岩波書店、1994年)
- 田中裕、赤瀬信吾校注『新古今和歌集』(岩波書店、1992年)
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