「赤染衛門」紫式部の同僚で一流歌人、公私とも優等生 『栄花物語』作者
- 2024/02/22
赤染衛門(あかぞめえもん、950年代?~1040年代?)は一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えた女房(女官、侍女)で、紫式部の同僚です。もともと藤原道長の妻・倫子に仕え、夫妻の長女である彰子とは幼い頃から顔なじみ。古参の女房で仕事もそつなくこなし、歌人としても一流。『栄花物語』の作者とされる才媛です。
また、良妻賢母で公私ともに欠点がないこともあって、紫式部からも一目置かれていました。赤染衛門の生涯、人物像を見ていきます。
また、良妻賢母で公私ともに欠点がないこともあって、紫式部からも一目置かれていました。赤染衛門の生涯、人物像を見ていきます。
幼少期の彰子に贈った「石などり」の石
「赤染衛門」というと、男性みたいな名だと思うかもしれません。これは実名ではなく女房名。父・赤染時用(ときもち)が右衛門の志(さかん、4等官)、尉(じょう、3等官)を歴任したことに由来します。「赤染」は氏族名です。生没年不詳ですが、天徳元年(957)説があります。推定される結婚時期、妹と藤原道隆の恋愛時期などから、これより若いとしても数年以内でしょう。また、長久2年(1041)まで活動が確認され、天徳元年生まれなら85歳。長寿としても950年代以前の生まれではないと思われます。
なお、赤染氏は古代の技能者集団「部(べ)」に由来する氏族の一つ。衣料染色関係の職業と推定できます。
実父は平兼盛 認知裁判に発展
歌論集『袋草紙』によると、赤染衛門の実父は平兼盛です。赤染衛門の母は平兼盛の妻でしたが、離別して赤染時用と再婚。割とすぐに女児が生まれ、自分の子に違いないと思った兼盛が引き取ろうとしますが、赤染衛門の母は兼盛の子ではないと言い張って渡しません。兼盛は検非違使庁(警察、裁判機関)に訴えます。
この実子認知裁判で、右衛門志として検非違使庁に勤める赤染時用の証言が強烈でした。
時用:「(赤染衛門の母が)兼盛の妻だった時から自分と密通していたので女児は自分の子であり、断じて兼盛の子ではない」
この逸話は赤染衛門の曽孫・大江匡房が書いた『江記』からの引用です。
なお、平兼盛は光孝天皇の玄孫で、光孝平氏。桓武平氏ではありません。
源雅信邸に出仕 道長の妻・倫子の女房
赤染衛門は10代後半の頃、源雅信邸に出仕。雅信の妻・穆子(むつこ)に宮仕えの作法を仕込まれ、雅信の娘・倫子に仕える女房となります。源雅信の邸宅・土御門第は倫子と夫・藤原道長の住まいとなり、道長夫妻に長女・彰子が誕生。『赤染衛門集』に、幼い頃の彰子に石などりの石を贈ったという和歌があります。
〈すべらぎのしりへの庭のいしぞこは ひろふ心ありあゆがさでとれ〉
(天皇の后妃方が住まわれる後宮の庭の石ですよ。拾って欲しい気持ちです。動かさないでお取りください)
石などりはお手玉のような遊びで、赤染衛門がそれに使う小石を内裏から取ってきて彰子に渡したのです。彰子は后がね(中宮候補)と期待されていたことがうかがえます。
なお、倫子の兄・源時叙(ときのぶ)は赤染衛門にラブレターを贈っています。
道隆への恨み節? 代作和歌が「百人一首」
赤染衛門は一流歌人でもあり、『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に約90首が入っています。家集『赤染衛門集』は600首を超える和歌を収め、「百人一首」にも作品が選ばれています。約束すっぽかした恋人待ちわび、徹夜
「百人一首」59番が赤染衛門の和歌です。〈やすらはで寝ましものを小夜(さよ)更けて かたぶくまでの月を見しかな〉
(あなたの訪れを待たず、さっさと寝てしまえば良かったのに、夜が更けて西の山に沈むまで月を見てしまいました)
「来るっていうから待っていたのに。徹夜しちゃったじゃないの」
約束をすっぽかした恋人を責める歌ですが、ちょっと軽い感じもします。それもそのはずで、妹のための代作です。お相手は関白・藤原道隆。少将の頃(974~977年)です。
紫式部の評価「上品で本格派の歌人」
紫式部は同僚の赤染衛門を高く評価しています。紫式部:「上品で本格派の歌人。人にひけらかすようなことはありませんが、ちょっとした機会に詠んだ和歌でも、それこそ頭の下がる詠みぶりです」
赤染衛門は紫式部より15歳ほど年上のベテラン女房。清少納言や和泉式部は辛辣に批評している紫式部にとっても、それこそ頭が上がらない先輩だったのです。
和泉式部との関係 親身にアドバイス
赤染衛門は和泉式部とは20歳ほど年齢が離れていますが、最初の夫・橘道貞との関係に悩む和泉式部には親身にアドバイスを送っています。和泉式部が橘道貞と破綻したのは中宮・彰子に出仕する前。赤染衛門の長男・大江挙周(たかちか)の妻が和泉式部の妹という個人的な関係で相談に乗ったようです。赤染衛門は後輩の面倒見も良かったようです。おしどり夫婦「匡衡衛門」のあだ名
赤染衛門の夫は大江匡衡(まさひら)です。赤染衛門は大江為基(匡衡の従兄弟)との結婚を望みますが、あまり健康そうではないと反対されました。父母は「男は仕事が第一、容姿は二の次。あれだけの秀才はめったにいない。将来、大江家を背負って立つ人だ」と、大江匡衡をほめていますので、赤染衛門は当初、匡衡の容貌が気に入らなかったようです。つまり、面食いです。
20歳前後で結婚 子に挙周や江侍従
結婚や長男・大江挙周誕生の時期は不明ですが、20歳前後、貞元年間(976~978)か天元年間(978~983)の初めとみられます。大江匡衡との年齢差は5歳程度です。なお、挙周の生母は中将の尼という別の女性で、幼い時に赤染衛門が引き取って育てたという説もあります。
また、娘が2人います。いずれも実名は不明。
長女が侍従。藤原道長に仕える女房で、高階業遠(なりとお)の妻。業遠は道長の家司(けいし)です。次女が江侍従。後一条天皇に仕える女房で、藤原道兼の孫・兼房の妻です。
『赤染衛門集』の和歌などからの推定で、江侍従を姉とするなど異説もあります。
夫・匡衡の浮気現場に送りつけた和歌
大江匡衡は藤原道長お抱えの文人・漢学者。一条天皇の侍読を務め、漢学を教えています。長保3年(1001)と寛弘6年(1009)の2度、尾張守に任官。赤染衛門は夫について尾張に赴き、この間は彰子のもとを離れています。赤染衛門は良妻賢母の誉れ高く、「匡衡衛門」とのあだ名もあります。夫婦仲が良いことをからかわれているのです。
しかし、『今昔物語集』には、匡衡が伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)の神官の娘と熱愛する逸話があります。赤染衛門は神官の家に和歌を送り、それを見た匡衡が浮気をピタリとやめました。
子息・挙周を出世させ、病気を治した和歌
赤染衛門の和歌の力はまだまだこんなものではありません。『今昔物語集』のこの話の前段はその何十年も後、長男・大江挙周を思う母としての赤染衛門の逸話です。赤染衛門は挙周の出世に焦る親心を和歌にして藤原道長の妻・倫子に送ります。これを見た道長が感動。挙周を和泉守に抜擢します。
赤染衛門は挙周の赴任について和泉に行きましたが、挙周が重い病気となってしまいます。八方手を尽くした末、住吉神社(大阪府大阪市住吉区)に奉納した玉串に和歌を書きます。子の命に代わろうとする私の命はちっとも惜しくはないと願い、その夜、挙周は回復しました。
なお、挙周が和泉守に任官したのは寛仁3年(1019)で、この頃、赤染衛門は出家。治安3年(1023)、挙周が任期を終えて帰京の際に大病し、赤染衛門が住吉神社に奉幣しています。
女院・彰子とともに亡き一条院と夫を偲ぶ
赤染衛門の夫・大江匡衡は一条天皇崩御翌年の長和元年(1012)、61歳で他界。一条天皇の退位、崩御後、中宮から皇太后、太皇太后となった彰子は万寿3年(1026)に女院・上東門院となります。ある時、赤染衛門は上東門院・彰子を訪ね、亡き一条天皇や大江匡衡を偲び、ともに泣き伏して袂(たもと)を濡らします。翌日、和歌を交換しました。
赤染衛門:〈つねよりもまた濡れ添ひし袂かな 昔をかけて落ちし涙に〉
(女院さまが昔の帝と夫のことを仰せられたので、こもごも思い出され、昨夜は平常よりも袂が濡れました)
彰子:〈うつゝとも思ひ分かれて過ぐるまに 見し世の夢を何語りけん〉
(一条院や匡衡の亡くなったことが現実かどうかの判断もつきかねて日々が過ぎる間に、昨夜はあなたと在りし日の儚い思い出話をどうして話したのであろう)
大江家との縁なくして『栄花物語』なし
赤染衛門は『栄花物語』正編30巻の作者とされています。藤原道長死後の長元年間(1028~1037)から編纂されたとみられ、赤染衛門70代の頃となります。『紫式部日記』の引用があり、紫式部との交流は大きな影響があります。また、大江家は国史編纂にも関わる文人の家系で、膨大な史料を所蔵しています。大江匡衡との結婚なくして『栄花物語』の成立はなかったはずです。
没年は不明だが、85歳超える長寿
赤染衛門の最期は不明。長久2年(1041)、曽孫・大江匡房の誕生を祝う和歌を詠み、弘徽殿女御歌合にも参加し、推定85歳の頃までは健在でしたが、この後の動向は分かりません。永承元年(1046)6月に長男・大江挙周が死去していますが、もし生きていれば赤染衛門は90歳と推定できます。おわりに
女房として有能だった赤染衛門は歌人としての評価も高く、洗練され、整えられた典雅な和歌を詠みました。王朝の宮廷サロンで広く受け入れられる作風です。その堅実さは人柄にも表れていて、温厚な性格で、幸せな家庭を築きました。公私とも優等生で、しかも長寿。穏やかな大往生以外は想像できない生涯を送りました。【主な参考文献】
- 上村悦子『王朝の秀歌人 赤染衛門』(新典社、1984年)
- 後藤昭雄『大江匡衡』(吉川弘文館、2006年)
- 服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館、2019年)
- 朧谷寿『藤原彰子』(ミネルヴァ書房、2018年)
- 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
- 武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社、2016年)講談社学術文庫
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄