毛利元就の兄弟・姉妹・妻子、総勢25名の略歴まとめ

毛利元就の家族といえば、いわゆる「三子教訓状」に由来する「三本の矢」の逸話が象徴するように、団結して家を繁栄させていったことで知られています。

本記事では、元就の兄弟・姉妹・妻子、総勢25名分の各プロフィールをご紹介します。

元就の兄弟(8名)

毛利元就には多くの兄弟姉妹がいたようです。今回取りあげるのは兄弟3人(毛利興元、相合元綱、北就勝)、姉妹5人で、以下はその略系図です。


毛利興元(おきもと、1493‐1516)

元就の同母兄(母は福原広俊の娘)で、弘元の長男です。幼名を幸千代丸といいました。明応9(1500)年に父・弘元が隠居したため、8歳の興元が家督を継ぎ、吉田郡山城(現在の安芸高田市)主となりました。永正3(1506)年に父が亡くなると、翌年に大内義興に服属し、義興を烏帽子親として元服し、その偏諱を受けて「少輔太郎興元」と称しました。

義興が足利義稙を奉じて上洛した際はそれに従って在京し、船岡山合戦において手柄をあげたとされます。帰国後は安芸の有力な諸将8名と盟約を結び、連携しました。

永正13(1516)年8月25日、興元は24歳の若さで、わずか2歳の嫡子・幸松丸を遺し亡くなりました。死因は酒害といわれます。実は、父・弘元の死因も酒毒によるとされています。元就にとって父と兄が酒の飲みすぎで死んでしまったことは教訓として刻まれ、彼自身は酒を慎んで長寿を全うしました。

相合元綱(あいおうもとつな、?‐1524)

同じく家女房所生の庶子で、弘元の三男、元就の異母弟にあたります。軍記物には「少輔三郎元綱」とか、「相合四郎元綱」と記載されています。

元就が家督を継いだころ、それに反対して元綱を擁立しようとした坂・渡辺らの計画が失敗し、元就の宗家相続後に誅殺されました。

北就勝(きたなりかつ、?‐1557)

「北殿」とされる就勝は、弘元の侍女の有田某所生の庶子で、弘元の四男、元就の異母弟にあたります。就勝は足が不自由で、はじめは常楽寺の住職となっていましたが、のちに還俗して「北式部少輔就勝」と称し、元就の家臣となりました。「就勝」の名は元就の偏諱を受けたものです。弘治3(1557)年8月7日に死去しました。

宮姫【武田某室】(?‐?)

元就の同母姉で、名は「御五もし」ともされる弘元の長女です。武田某の室となりました。

八幡新造【渋川義正室】(?‐1577)

難波元房の娘とされる家女房御袋腹所生の庶子で、弘元の次女、元就の異母妹にあたります。備後の渋川兵部丞義正の正室で、子に渋川義満がいます。「八幡のかみさま」「小幡の上様」「神辺上様」ともいいます。天正5(1577)年7月12日に死去しました。

相合大方【井上元光室】(?‐1570)

同じく家女房所生の庶子で、弘元の三女、元就の異母妹にあたります。井上右衛門大夫元光の室で、子に井上元義がいます。井上一族は天文19(1540)年に元就に粛清されて誅殺されますが、相合大方の夫・元光は元就の妹婿であったためこれを免れました。

松姫【吉川元経室】(?‐1523)

同じく家女房所生の庶子で、弘元の四女、元就の異母妹にあたります。吉川治部少輔元経の室で、子に吉川興経がいます。興経は、のちに元就の次男で自身の従兄弟にあたる元春を養子に迎え、吉川氏を相続させます。松姫は大永3(1523)年に死去しました。

竹姫【井原元師室】(?‐?)

同じく家女房所生の庶子で、弘元の五女、元就の異母妹にあたります。井原鍋谷城(現在の広島市)主・井原常陸介元師の室となりました。

元就の妻(5名)

次に元就の妻、正室と側室をみていきましょう。


妙玖(みょうきゅう、1499‐1546)

妙玖は、吉川国経の娘として生まれ、元就の正室となった女性です。結婚の時期ははっきりとわかっていませんが、永正14(1517)年前後であろうと見られています。「妙玖」とは法名で、実名はわかっていません。

隆元・五龍局・元春・隆景の、三男一女の母で、妙玖所生の子は他とは別格に扱われました。妙玖は天文14(1546)年11月30日に47歳で亡くなり、元就はその死に衝撃を受け、翌年には隆元に家督を譲っています。元就は妙玖存命中は側室を持たず、死後も度々「妙玖のことばかり思い出される」「妙玖がいればこんなことは言わなくていいのに」などとこぼしており、大事にしていたことがうかがえます。

元就が隆元・元春・隆景に宛てた「三子教訓状」の内容にも妙玖のことが書かれており、子どもたちの団結の要であったことがわかります。

乃美大方(のみのおおかた、?‐1601)

妙玖の死後、継室として迎えられた女性です。父は小早川一族の乃美弾正忠弘平。子に穂井田元清・天野元政・毛利秀包がいます。元清は上の兄の隆景と19歳違うので、少なくとも妙玖死後数年後に継室になったものと思われます。

乃美氏といえば、のちに隆景を小早川家の養子にするのに一役買った人物に乃美隆興がいます。このような関係から、乃美大方もその一族であろうかと見られています。慶長6(1601)年9月14日、毛利氏の移封先である山口で死去しました。

中の丸(?‐1625)

元就の継室で、小幡民部大輔元重の姉と伝わる女性です。ほかの継室・側室らよりも年上で、子はありませんでした。しかし才気に優れた女性であったようで、元就の身のまわりだけでなく、その子や孫、とくに輝元の教育に関わったとされます。妙玖の亡き後はとくにこの中の丸が元就の支えとなったようです。
中の丸は、寛永2(1625)年9月25日、毛利氏の移封先である山口で死去しました。長門深川の大寧寺境内に葬られましたが、明治時代に入って東京に移されました。

三吉氏(?‐1588)

元就の側室で、三吉新兵衛尉広隆、または九郎左衛門の娘とされる女性です。元就の側室として過ごしたのちに元就家臣の井上就正の室になりましたが、そのほかの詳しい経歴は不明です。子には、椙杜元秋・出羽元倶・末次元康・上原元将室の元就三女がいます。天正16(1588)年2月19日に死去しました。

矢田氏(?‐?)

元就の側室か、と見られている女性です。備後の矢田元通の娘とされ、のちに輝元の家臣となる二宮就辰を生みました。就辰は二宮春久の子とされますが、元就の落胤説もあります。

元就の子供(12名)

最後に10名以上を儲けた元就の子をみていきます。

毛利隆元(1523‐1563)

元就の長男で、母は妙玖です。安芸多治比猿掛城(現在の安芸高田市)で生まれ、幼名は少輔太郎といいました。尼子氏に服属していた元就が大内氏に服属するようになり、その関係で天文6(1537)年から4年ほど山口の大内義隆の元で人質として過ごしました。隆元は義隆に可愛がられ、義隆を烏帽子親として元服、その偏諱を受けて「隆元」と称しました。

天文15(1546)年には父から家督を譲られますが、以後父が隠居を表明しても引き止め、隆元が亡くなるまで元就が実権を持ち続けました。隆元は永禄6(1563)年8月4日に急逝し、家督はその子・輝元が継ぎました。


吉川元春(きっかわもとはる、1530‐1586)

同じく妙玖所生の元就次男で、通称を少輔次郎といいました。天文10(1541)年、郡山合戦の折、元春は12歳(満年齢では10歳)で初陣を飾り、手柄を立てました。天文12(1543)年に兄・隆元の偏諱を受けて元服すると、「元春」と称しました。天文16(1547)年に吉川家の養子に入り、家督を継承すると、同じく小早川家の養子となった弟の隆景とともに毛利宗家を支え、「毛利両川」体制を築きました。

織田氏との高松の役の後、天正10(1582)年に子の元長に家督を譲って隠居するも、のちに秀吉の九州征伐に従って出陣。天正14(1586)年11月15日、豊前小倉の陣中で病により死去しました。


小早川隆景(1533‐1597)

同じく妙玖所生の元就三男で、幼名を徳寿丸といいました。天文13(1544)年に竹原小早川家の養子として家督を継ぎ、次いで天文19(1550)年には沼田小早川家を継ぎました。吉川家を継いだ兄・元春とともに毛利宗家を支え、毛利を120万石を超える大大名にしました。

羽柴秀吉の中国大返しの際は、追撃しようという家中の武将らを止め、秀吉に恩を売ったとされます。その後は秀吉に気に入られて羽柴姓を許され、従三位・権中納言まで昇りました。小田原の役・文禄の役などで活躍し、文禄4(1595)年には隠居して養子の秀俊(のちの秀秋)に家督を譲りました。慶長2(1597)年6月12日、病床の隆景は三原城で死去しました。
隆景は黒田官兵衛に並ぶ智将と称えられています。



穂井田(穂田)元清(ほいだもときよ、1551‐1597)

乃美大方所生の庶子で、元就の四男です。隆景の後に生まれた元清以下の庶子たちは、「三子教訓状」の中で「虫けらのようなる」子どもたちと表現されています。3兄弟と年が離れてまだ小さいことを意味するのかもしれませんが、「人並みに成人するものがあれば俸禄をやってほしい、ただ不十分な心構えなら、どのように処分しても構わない」としており、妙玖の子らとは区別していたことがうかがえます。

元清は天正3(1575)年に備中の穂井田元資の養子となるも、のちに毛利姓に戻っています。備中計略や輝元の広島城普請で活躍し、文禄の役の折は秀吉の虎退治に従い2頭を生け捕りにしたとされます。
慶長2(1597)年7月9日、兄・隆景の後を追うように亡くなりました。


椙杜元秋(すぎもりもとあき、1552‐1585)

三吉氏所生の庶子で、元就の五男です。はじめ少輔十郎といいました。周防国玖珂郡蓮華山城(現在の岩国市)主・椙杜隆康に実子がなかったため、その養子となって「椙杜」姓を名乗りましたが、永禄11(1568)年に月山富田城(現在の安来市)在番となり、「富田」氏を称しました。のち月山富田城主となり、天正13(1585)年5月5日、城内で死去しました。

出羽元倶(いずはもととも、1555‐1571)

同じく三吉氏所生の庶子で、元就の六男です。はじめ鶴法師丸、孫四郎といいました。石見国邑智郡出羽二山城(現在の邑南町)主の出羽元祐の養子となりました。しかし、元倶はわずか17歳の若さで、元亀2(1571)年8月10日に死去してしまいました。

天野元政(あまのもとまさ、1559‐1609)

乃美大方所生の庶子で、元就の七男です。はじめ千虎丸、少輔六郎といいました。元就は、盟約を結んでいた天野氏の跡継ぎ問題に際し天野元定を当主に推挙しましたが、これが没したため元政を元定の娘婿とし、家督を継ぐことになりました。

元政は上月城の戦いで手柄を立て、その後豊臣政権下で数々の戦に出陣し活躍すると、慶長元(1596)年には従五位下・讃岐守に任ぜられています。のちに剃髪して「宗休」と号し、慶長14(1609)年に萩の地で死去しました。
元政は毛利八家のうち右田毛利家の祖とされます。

末次元康(すえつぐもとやす、1560‐1601)

三吉氏所生の庶子で、元就の八男です。はじめ少輔七郎といいました。元就に出雲国末次城(現在の松江市)を与えられ城主となったのち、天正4(1578)年に月山富田城の兄・元秋が亡くなるとその家督を継いで月山富田城主となりました。文禄・慶長の役で活躍し、文禄4(1595)年には従五位・大蔵大輔に任ぜられています。

慶長6(1601)年正月17日、摂津大坂にて死去しました。元康はのちの長州藩家老・厚狭毛利家の祖とされます。

小早川(毛利)秀包(こばやかわひでかね、1567‐1601)

乃美大方所生の庶子で、元就が71歳の時に生まれた九男です。はじめ才菊丸、市正、藤四郎、元総といいました。元亀2(1571)年に安芸国戸坂氏を、さらに備後国大田英綱の後を継ぎましたが、のちに実子のない兄・隆景の養子となりました。毛利氏が豊臣秀吉と和平を結ぶと、人質として大坂城に入り、秀吉に可愛がられ偏諱を受けて「藤四郎秀包」と称しました。

毛利氏当主の輝元には実子がなく、秀吉は親族の秀俊(のちの秀秋)を継嗣にと勧めましたが、小早川隆景が「他家の者が宗家を継ぐべきではない」として自らが秀俊を養子としたため、秀包は毛利姓に復しました。
ほかの兄弟たちと同様に文禄・慶長の役で活躍しました。天正17年には従四位下・大内記・侍従に任ぜられ、文禄2(1593)年には筑後守となりました。慶長6(1601)年3月26日、長門国赤間関(現在の下関市)で没しました。


二宮就辰(1546)

矢田氏を母とする、元就落胤説のある子です。元就は妙玖を唯一の妻として、存命中は側室を持たなかったといわれますが、実は妙玖が亡くなったころ、この矢田氏を寵愛しており、妙玖が亡くなった翌年の天文15(1546)年にこの就辰が生まれているのです。もし妙玖がまだ生きていたら、矢田氏を側室とし、就辰を実子として育てたのかもしれませんが、妙玖の死のショックもあり、元就は二宮春久に妻子とも下げ渡したのだといわれます。

就辰は元就の偏諱を受け、のちにその孫・輝元の重臣として広島城普請奉行を務めるなどして、毛利氏を支えました。

五龍局【宍戸隆家室】(ごりゅうのつぼね、?‐1574)

同じく妙玖所生の元就の三女です。元就と妙玖の間には隆元誕生前にふたりの女子がいたものの、ひとりは他家に養子に出されたようです。

五龍局とはもちろん実名ではなく、これは嫁ぎ先の宍戸隆家の居城が五龍城であったことにちなんで呼ばれる名です。毛利氏と宍戸氏はライバル関係で、争うこともありました。五龍局の結婚は両者の関係を安定させる政略結婚だったのです。このことが元就は気がかりだったのか、「三子教訓状」の中で五龍局について言及し、「不憫に思われることが多いから、宍戸氏については一代の間は3兄弟と同等に扱うように」「五龍局との間に少しでも気まずいことが生じれば元就に対してこの上ない不孝となる、分別するように」と言っています。

なお、五龍局は元春正室の新庄局と仲が悪かったようで、「和解するように」という書状が残っています。
五龍局は天正2(1574)年に死去しました。

四女【上原元将室】(?‐?)

三吉氏所生の女子とされる女性ですが、上原元将の正室であること以外の詳細な経歴はわかっていません。

おわりに

以上、毛利元就の兄弟姉妹妻子まで総勢25名についてまとめました。元就の兄弟はほかにもいたとされますが、そのあたりははっきりしません。特に女性に関する史料は少ないものですが、やはり元就に関係する女性たちについても同様です。

ただ、正室の妙玖については度々書状に名前が登場するなど、正室として大切にしていたことが見て取れます。元就は女性を大切にしたようで、男子のいない家でも女性が土地を相続することを認めていたとか。

元就の子で、上の3兄弟は「毛利両川」として協力して家を守ったことで知られますが、こうして庶子まで並べてみると、そのほかの兄弟たちもともに毛利家臣として毛利氏の繁栄に貢献していたことがわかります。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房、2014年)
  • 池亨『知将・毛利元就 国人領主から戦国大名へ』(新日本出版社、2009年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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