「どうする家康」『徳川実紀』にみる徳川家康暗殺事件の闇

 大河ドラマ「どうする家康」第41話は「逆襲の三成」。徳川家康の暗殺計画が描かれていました。

 慶長4年(1599)閏3月、石田三成は、七将による「三成邸襲撃事件」を受けて、佐和山(滋賀県彦根市)に引退します。一方、徳川家康は伏見城西の丸に入り「天下殿」と称されたりもしました。同年9月9日、重陽の節句のお祝いを述べるため、家康は大坂の豊臣秀頼のもとを訪れます。

 しかし、事前に、家康の耳には、恐るべき知らせが寄せられていたと言います。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、その恐るべき知らせを家康にもたらしたのは、増田長盛と長束正家だったようです。長盛と正家は

「家康が大坂に入った時に、殺害しようとする動きがある。それは、浅野長政が主導している。刺客は、土方雄久と大野治長だ」

ということを告げるのです。この「家康暗殺計画」の存在を受けて、徳川の臣・本多正信などは

「明日、大坂城に入ることは良くありません」

と進言したとのこと。だが、井伊直政・榊原康政・本多忠勝らは正信の意見に反対。

「そのようなことになれば、臆したと思われる。心構えをして大坂城に入れば良い」

 と。結局、家康は直政らの見解を採用し、大坂に入ります。家康は大坂城にて、秀頼・淀殿母子に対面。井伊・榊原・本多(忠勝)といった徳川重臣は、家康の側を離れず、ずっと付いて回ったので「城中には手を出すものはなかった」と『徳川実紀』にはあります。

 同書は、家康を殺そうとした首謀者は「加賀中納言利長」(前田利長)、浅野長政と記しています(それに土方・大野が与し、刺客を命じられた)。 彼らの罪を糺し、懲らしめるべしとの見解もありましたが、そうなれば、世は騒ぎとなり「秀頼のためにも良くない」と家康は主張(『徳川実紀』)。長政は所領に蟄居、土方と大野は常陸や下総に流されます。

 同書によると、今回の出来事は、石田三成・増田長盛・長束正家が謀って、前田利長と浅野長政を陥れようとしたものと記載されています。利長と長政は徳川家に親しみを抱いていたので、それを瓦解させようと三成らが謀ったというのが同書の解釈です(よって、利長や長政らの罪は軽かった)。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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