「中野サンプラザ」昭和時代の若者たちが憧れた ”アイドルの聖地” が消滅する
- 2023/11/14
解体・建て替え予定の中野サンプラザ
数千メートルの高度を飛ぶ旅客機の窓からも、独特の三角形をした中野サンプラザはすぐ目につく。2年前に東京上空を飛ぶ新飛行経路が設定されてからは、「もう中野の上空まで来たか」
と、いつもこの建物を見て飛行機の現在位置を確認したものだが。しかし、この上空の道標も近いうちに消滅するという。
老朽化した中野サンプラザの建て替え方針が明らかにされたのは2018年のこと。それから5年後の今年7月2日に閉鎖され、近く解体工事も始まるという。消滅する前にその勇姿を間近に拝んでおこう。と、久しぶりに中野へ行ってみた。
軍の施設が「アイドルの聖地」に変貌
JR中野駅北口を出る。目の前にはまだ中野サンプラザが聳え立っていた。存在感のある姿にしばし見惚れていると……あれ!? 耳の奥から爆風スランプの『Runner』が聞こえてきたような。これは幻聴だろうか。 そういえばこの曲を作詞した ”サンプラザ中野(現・サンプラザ中野くん)” は、1981年に中野サンプラザのコンサートホールで開催されたアマチュア・バンドのコンテスト『East West』で注目され、それがメジャーデビューの契機になった。
自分の名字が ”中野” だったことから、それにちなんでこの芸名を名乗るようになり、中野サンプラザも公認したという。爆風スランプが人気バンドになってからも、ここでよくコンサートを開いていた。
中野サンプラザのコンサートホールは収容人員2000名程度。武道館よりずっと少なく、また、近年の首都圏には万単位を収容するアリーナもできている。
それでも、爆風スランプをはじめ、山下達郎など多くの有名ミュージシャンが中野サンプラザを好んで使いつづけた。長年使った楽器は手に馴染んで手放せなくなるという。50年の歴史を誇るこのコンサートホールもミュージシャンにとってはそういった存在なのだろうか。
また、松田聖子や小泉今日子など、昔からアイドルのコンサートでもよく使われることでも知られる。70年代には人気アイドルがこぞって参加する『サンプラザ音楽祭』も開催されて「アイドルの聖地」と呼ばれるようになっていた。J-POPの歴史を語るうえでは欠かすことのできない場所。それがいま消え去ろうとしているのだ。
ここでふと思った。中野サンプラザができる以前、この場所には何があったのだろう?
中野サンプラザが完成したのは1973年6月1日のことである。中野を含む中央線沿線はすでに建造物で埋め尽くされて過密化していた。駅前に広大な敷地を確保するのは至難の業だったと思うのだが。
歴史を遡ってみると、江戸時代の中野は将軍家の広大な鷹狩場だった。5代将軍・綱吉の治世には野犬を保護するため「お囲い」と呼ばれた犬牧場も設置され、約30万坪の面積に数万頭の犬が飼われていたという。
それが明治時代になると広大な土地は国有地になり、陸軍関係の様々な施設が置かれた。スパイ養成所として名高い陸軍中野学校や憲兵隊の学校など、怪しくて怖そうな機関もいっぱいあった。
終戦後は土地の大半が進駐軍に接収され、中野サンプラザのある場所にはマッカーサー元帥直属師団の兵舎が建っていたという。
サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復すると、土地は進駐軍から返還されて再び国有地となり、警察大学校など警察関係の施設が移転してきた。
しかし、駅前の一等地なだけに返還後は地元からの払い下げ要求が強く、東京が過密化するにつれて有効活用を叫ぶ声が大きくなってゆく。そして1966年にはついに、駅にいちばん近い東側の約2万坪を中野区に払い下げることが決定された。そこに中野区役所と中野サンプラザが建てられたのである。
中野サンプラザは労働省(現在の厚生労働省)管轄の雇用促進事業団が、勤労者の福祉施設として建設したもので、正式名称は「全国勤労青年会館」という。営利を目的としない公共施設だった。
開館当初に一番の目的としたのが「地方から集団就職などで上京した若者たちが集う場所を提供する」ことだった。そのため全国の地方新聞を閲覧できるコーナーや結婚相談所、夏場には3分間だけ故郷の人々と話ができる電話などが置かれていたという。
現在は中野区などが出資する株式会社が運営する文化複合施設となっているが「アイドルの聖地」として、若者が集う場所を提供しつづけた。最後までその役目をまっとうした。と、いうことになるだろうか?
中野に残るもうひとつ「聖地」にも消滅の危機が迫る!?
若者が集う場所……という、中野サンプラザが残した遺産は、その50年の歴史を通して中野の街にも浸透しているようだ。中野サンプラザとは中野通りを挟んで並行するサンモール商店街を歩く。終戦直後の頃、ここは中央線沿線では最大の闇市だった。米軍兵舎が隣接していたことから、倉庫の物資が大量に横流しされていたという。
その闇市から中野美観街と呼ばれる商店街が発展し、1958年にアーケードが完成した時にサンモール商店街へと名称変更された。ここがまだ中野美観街だった頃のことが、五木寛之のエッセー『風に吹かれて』に書かれている。それによれば、
「当時、私たちは、中野駅北口の一画を中心にして出没していた。その地帯は、私たちにとってのメコン・デルタであり、〈私の大学〉でもあった。」
という。
美観街から入った路地には酒場や喫茶店が軒をつらね、見知らぬ客同士が文学や政治などについて喧々諤々と議論する光景がよく見られたのだとか。
怪しい文化人や自由人、背伸びして大人の話に加わってみたい大学生などが集まってくるシーンが想像される。どうやら、中野サンプラザができる以前から、ここには若者を引き寄せる磁場があったのかもしれない。
サンモール商店街をさらに行くと、中野ブロードウェイに至る。現在は誰もが知る「サブカル」の聖地だ。
中野ブロードウェイは1966年に完成した巨大マンションの地下と低層階を利用した商業施設。完成当時は「東洋一の巨大建造物」と喧伝された。が、その後は近隣に商業施設が増えたこともあり、70年代後半頃にはすっかり寂れて、現代の地方都市によくあるシャッター商店街のようになっていたという。
しかし、上層階のマンション住人だった漫画家・古川益三氏が、1980年に空き店舗を借りて漫画古書専門店「まんだらけ」を開店したことで、状況はしだいに好転してゆくことになる。
〝オタク〟という言葉はまだ存在しなかった当時、読み捨てられる漫画に執着するのはかなりマイナー趣味だったが、噂を聞いた漫画好きが集まるようになる。マイノリティーがひと目を気にせず語りあえる集いの場であったのだろう。「まんだらけ」はさらに空き店舗を借りて規模を拡大。また、同業の漫画古書店や関連グッズを売る店などが次々に進出し、90年代になるとすっかり「サブカルの聖地」ができあがっていた。
かつては蔑まれた〝オタク〟趣味もいまや世界中から注目を集めるようになり、日本を代表する文化に。浅草や秋葉原と同様に、中野ブロードウェイも外国人観光客の姿が目立つようになっている。もはや日本だけではない。いまや中野は世界の若者が集う場所となっているのだが、その栄華が永遠につづくことはない。
最近は高級時計やブランドの買取店が増えて、サブカルの聖地が少し薄れてきたような。また、60年代に完成した建物は、老朽化を理由に取り壊される中野サンプラザよりもさらに古い。2018年に東京都が震度6以上で倒壊の恐れがある建造物のリストを発表しているが、そのなかには中野ブローウェイも入っている。
いつ取り壊し計画が発表されてもおかしくない状況だ。「アイドルの聖地」につづき「サブカルの聖地」もまた……中野を象徴する二大聖地が消滅する未来は、そう遠くない将来には確実にやってくる。そうなっても、若者たちを引き寄せてきた不思議な磁場は、この地に存在しつづけることができるのだろうか?
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