「原宿駅」神宮の森によく似合った西洋風駅舎 ”昭和の東京” の眺めがまたひとつ消えた
- 2023/10/26
80年代、ティーンエイジャーにとって聖地だった原宿
銅板葺きの尖塔の上にあった風見鶏が、いまも残像として目に焼きついている。柱や梁などの木組みを壁の表に出したハーフティンバー様式の木造駅舎に、神宮の森が背景によく似合う。ヨーロッパの田舎街の風景にありそうな眺めだった。それは、他の山手線の駅と比べてかなり個性的でもあり、
「さすがは原宿だなぁ」
はじめて原宿に行った時にはそう思って、この駅舎に見惚れたものだ。何が〝さすが〟だったのか分からないのだけど。
80年代初頭の頃、週末の駅前は代々木公園に向かうタケノコ族やローラー族がいっぱい。なんか、ハロウィンの渋谷にも似た眺めだった。竹下口には聖子ちゃんファッションの女の子たちであふれていた。修学旅行の中高生も多く、方言がやたらと飛び交っている。
当時のティーンエイジャーにとって原宿は聖地。すべてが神々しく感じる。だから、他の山手線駅とは雰囲気が違った駅舎を「さすが原宿」と、つい崇めてしまったのだろうか。
いまでも「原宿」という言葉を聞くと、まず頭に浮かぶのはあの駅舎の眺め。だが、もはやそれを現実に見ることはできない。
2013年9月に東京オリンピック開催が決定すると、乗降客の急増が見込まれる原宿駅の改良プロジェクトが始動。混雑緩和や利便性を向上させるため、ホームの改良や駅舎の建替えが決定する。2020年3月には表参道寄りに新駅舎が完成し、8月には旧駅舎の解体工事が始まった。
現在は解体工事も完了し、その場所はフェンスで覆われた空地になっている。旧駅舎の廃材は保管されており、数年後には同じ場所に旧駅舎を再現した建物が造られる予定だという。
けど、ネットでその完成予想図を見てみると、
「なんか、違うんだよなぁ」
道の駅とかにあるトイレみたいな感じで、「関東の駅百選」にも選ばれた旧駅舎の雰囲気にはほど遠く思える。
また、新しくなった原宿駅の外観を眺めて見る。と、こちらもまた旧駅のイメージからはほど遠い。いまどきの駅では流行りのガラス張りの外観、地方にもこんな感じの駅舎が増えている。ありふれている。なんだか、原宿に来たって感じがしない。
まあ、見慣れていないというのもある。これも時が過ぎて見慣れてくれば、
「ああ、原宿に来たのだな」
と、違和感を抱くこともなくなるのだろうか?
構内のそこかしこに旧駅の残香が……
渋谷から乗った山手線外回りの電車が、原宿駅に到着した。大勢の客がホームにいるのだが、以前と比べると混雑はさほどなく、スムーズに人は流れている。かつては1面2線の島型ホームだけで、大勢の乗降客を捌いていた。混雑して危険でもある。そこで、年末年始の明治神宮参拝の時だけ使われていた臨時ホームを改良した新ホームが新設されて、現在は2面2線で運用されるようになっている。
臨時ホームだった頃は狭く簡素な造りだったが、いまは拡張されて広くなり、屋根やホームドアまで設置されている。また、ホームと明治神宮境内との間には高い壁も築かれた。
壁ができる以前には、原宿駅を通過する電車の車窓から、臨時ホームの先には神宮の森の緑が広がっていたのだが。それもまた、いまは見ることができない。
ホームの階段を登ってコンコースに出てみよう。起伏の多い土地、線路はその谷底を縫うようにして敷設されている。新駅舎はその谷を跨ぐようにした橋上駅の構造で、旧駅舎と比べたらそのスペースはかなり広くなっている。
ガラス張りの広く明るいコンコースは、まるで国際空港のようでもある。昔と比べると欧米人観光客の姿が多くなっているから、なおさらそんな感じ。また、明治神宮側にも出口があり、ここでも人の流れは滞ることがない。しかし、
「なんか、味気ないなぁ」
昔は週末ともなれば、改札口まで長い行列ができていた。細長い通路は薄暗く、それだけに、通路の先に垣間見る陽の光りに照らされた街が、いっそう煌びやかに映える。
その眺めに胸弾ませていた頃が懐かしい。
何もかも新しくなってしまった感のある原宿駅。だが、よく見てみると……懐かしい時代をとどめている場所も、それなりに見つけることができる。
島型ホーム渋谷寄りの跨線橋の屋根は、旧駅の頃から変わっていない。木造の梁や古い明かり取りの窓が見てとれる。鉄をリベットで貼り合わせた手摺りのある階段も、1950年代に設置された当時のままに残っていた。
また、頭上を見れば古いレールを流用してボルトで繋いだ屋根の柱とか。旧駅の頃の残香がそこかしこに見られる。このまま残すつもりなのか、それとも、撤去が後回しになっているのか。分からないのだけど。
ホームの階段を降りて、竹下口のほうにまわってみる。こちらも改装されず、昔のままだった。薄暗く天井の低い通路には、剥き出しの配線が何本も通っている。
昭和時代にはどこの駅でもよく見かけた殺風景な眺め。改札口の付近まで行くと、その先には、買い物袋を手にしてはしゃぐ観光客でにぎわう竹下通りが見える。駅構内とその外に見える街並みとのギャップは、表参道側の出口よりもさらに激しい。
明治時代の原宿駅の場所は?
竹下口の改札を出る。そこから振り返って見れば、駅出口の上にはホームに停車する電車が見える。表参道や明治神宮側では、線路は並行する道路よりも下にあるのだが。そこから道は下り坂、竹下通りのあたりで道路のほうが線路よりも下になってしまう。
渋谷川流域の底湿地と武蔵野台地の境目に位置する原宿駅周辺は、起伏が激しく複雑な地形をしている。そのため、開業当初から駅の設置場所について関係者も頭を悩ませたようだ。
原宿駅の開業は、日露戦争終戦の翌年にあたる1906年のことだが。当時の駅舎は現在の駅がある場所から300メートルほど北側にあった。
明治時代の原宿は森や田畑が広がる農村地帯。鉄道は東京市中に農産物を運ぶ貨物需要が多く、そのため荷物の積み下ろしがスムーズにおこなえるよう、周辺の土地との高低差がない場所を選んで駅が設置されたという。
しかし、1920年に明治天皇を祀る明治神宮が創建されると、駅の位置が問題になってくる。明治神宮から南へ一直線に伸びる道幅36メートルの表参道もできた。ケヤキを植えた歩道の周辺には店や人家も増えて、原宿の中心はそちらに移っている。
また、この頃には宅地化も進んで田畑は減少して、貨物需要は減っていた。それとは逆に神宮に参拝する旅客が増えており、その利便を考えて、表参道近くに駅舎を移転することになる。
貨物が中心だった頃は、線路との高低差があり駅舎の設置を避けていた場所なのだが。神宮の参拝者が利用するには、このうえない好立地だった。
1924年には現在位置に2代目の駅舎が完成した。鉄道省技師だった長谷川馨の設計によるもので、洋風モダンなデザインは高く評価されていたのだが。その一方で、
「明治神宮の表玄関に、欧米風デザインの駅舎はいかがなものか……」
と、当時は違和感を覚える者も多く物議を醸したという。新しいガラス張りの駅舎に違和感を抱く、いまの私と似たような心境だったのだろうか。
しかし、当初は違和感のあった洋風駅舎も100年の時を経て、すっかり原宿を象徴する眺めのひとつになった。撤去が決まった時には惜しむ声が多く、反対運動が起こったりもしていた。いまは違和感のある3代目の駅舎も、同じなのかもしれない。
そのうち見慣れてくるだろう。さらに時が過ぎれば先代の駅舎のように、原宿の象徴として愛されるようになるか?
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