蘇我蝦夷・入鹿親子の怨霊伝説 切り飛ばされた首が追いかけたのは?

飛鳥寺のすぐ裏手にある蘇我入鹿の首塚(奈良県高市郡明日香村飛鳥)
飛鳥寺のすぐ裏手にある蘇我入鹿の首塚(奈良県高市郡明日香村飛鳥)
 日本の三大怨霊と言えば菅原道真・平将門・崇徳天皇ですが、人々に恐れられた怨霊は他にもたくさん存在します。日本で最初の怨霊となった蘇我入鹿もその一人です。

蘇我氏が滅び、替わって台頭した藤原氏

 平安時代は怨霊が最も恐れられた時代ですが、怨霊にまつわる日本最古の伝えは蘇我蝦夷・入鹿父子のものです。彼らが権勢をふるったのは推古天皇末年から皇極天皇の御代、つまり600年ごろから645年ごろにかけてです。蘇我一族は古墳時代から勢力を持ち、587年にライバルであった物部氏の守屋を討ち果たすと、以後は蘇我氏一強時代となります。

 しかし朝廷で専横を振るう蘇我氏を排せんと、645年には中大兄皇子と中臣鎌足らが乙巳の変(いっしのへん)で蝦夷・入鹿父子を討ちました。これを機に「大化の改新」と呼ばれる国政の改革が行われ、鎌足は一連の功績に対してその死に臨んで内大臣に叙せられ、“藤原”の姓を賜ります。ここに日本最大の氏族・藤原氏が誕生します。

 このあと、藤原氏が代々の天皇に藤原氏の娘を后として送り込み、外戚として大いに権勢をふるったのは有名ですが、これは元々は蘇我氏のやり方だったんですよね。

天皇に見捨てられ、惨殺された入鹿

 かつて朝廷内に勢力を伸ばしていった蘇我氏ですが、なかでも中国文化に通じた入鹿は女帝・皇極天皇の元で大きな力を持っていました。

 その当時、これを疎ましく思った中臣鎌足は、天皇の嫡子である中大兄皇子(のちの天智天皇)を引き込んで反蘇我勢力の盟主に仕立てます。皇子は入鹿が帝位を簒奪しようとしていると告発。こうして645年に乙巳の変が勃発しました。

 このとき、入鹿は御簾の中に在った皇極天皇に助けを求めます。しかし天皇は我が子中大兄皇子の「入鹿は王家を傾けようとする罪人である」との言葉を聞いてその場を立ち去り、結果的に入鹿は反蘇我氏の人間によって惨殺されるのです。

 奈良県談山神社に伝わる絵巻『絹本著色多武峯縁起』では、切り飛ばされた入鹿の首が宙を舞っていますからね。入鹿は最後に「臣罪を知らず」と叫びましたが、その声は聞き入れられませんでした。

乙巳の変で首を切られた蘇我入鹿(『絹本著色多武峯縁起』より。出典:wikipedia)
乙巳の変で首を切られた蘇我入鹿(『絹本著色多武峯縁起』より。出典:wikipedia)

 息子入鹿の最後を聞き、蝦夷も自刃して蘇我氏は滅びます。当時の人は恨みを飲んで死んだ蝦夷・入鹿父子の恨みは、鎌足はもちろん、皇極天皇にも向けられたと考えました。

「あの時、天皇が庇って下されば私は命を落とすこともなく、蘇我氏が滅びることも無かったのに」

ですからね。

姿を現す蘇我父子の怨霊

 この後、皇極天皇は王宮を入鹿の血で穢した責任を取って退位、弟の孝徳天皇が即位します。

 やがて都を飛鳥に移したい中大兄皇子と、難波の宮に残りたい孝徳天皇が対立し、実権を握っている皇子は飛鳥に移り、天皇は難波に置き去りにされます。孝徳天皇が病没したあと、皇子は母の皇極天皇を再び位に就けました。重祚した天皇は斉明天皇と名乗りを変えますが、蘇我父子の怨霊はこのころから姿を現し始めるのです。

「斉明天皇(皇極天皇)」(『御歴代百廿一天皇御尊影』より。出典:wikipedia)
「斉明天皇(皇極天皇)」(『御歴代百廿一天皇御尊影』より。出典:wikipedia)

 661年5月、突然都は九州筑前国朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に移ります。これは唐と新羅に攻められ百済が滅んだあと、斉明天皇が朝鮮半島の利権を維持しようと唐と戦おうとしたからと言われますが、はっきりはしません。

 この直後に怪異が起きます。宮中に鬼火が現れ、大舎人などの官職に在った天皇の近臣が何人も亡くなります。この出来事の2ヶ月後に斉明天皇は崩御、その葬礼の時にも朝倉山の上に巨大な鬼が現れ、大きな笠をかぶって葬列を眺めていたと言います。

 『日本書紀』は、この鬼火や鬼の正体に言及していませんが、世上には蘇我氏の怨霊との説が広がります。平安時代の高僧皇円の『扶桑略記』には以下のように記しています。

「斉明天皇の御世に、大和葛城山の上空を龍に乗って飛ぶ者が現われた。彼の者は唐の人間のような身なりで笠をかぶり、生駒山の上まで行って消えた。世人はあれは唐の文化に通じた蘇我入鹿の仕業だと噂しあった」

 なお、天皇の近臣が多く急死した話にも触れ、『扶桑略記』ではこれらも蘇我の怨霊の仕業としています。

あちこちを飛び回った?入鹿の首

 また、乙巳の変の時に切り飛ばされた入鹿の首が天皇の御前の御簾に噛みついた、との話は広く伝わっています。

 飛鳥寺では入鹿の首は法興寺まで飛んで行ったと伝わり、首が落ちたところに “入鹿の首塚” が作られました。法興寺は現在の飛鳥寺の前身に当たる寺で、首塚があるのは飛鳥寺の本堂の裏になります。入鹿が暗殺された飛鳥板蓋宮から数百メートルの距離です。

蘇我入鹿の首塚(手前)と飛鳥寺(奥)
蘇我入鹿の首塚(手前)と飛鳥寺(奥)

 『多武峯縁起』絵巻は16世紀中ごろに描かれたもので、このころにはすでに入鹿の首があちこちを飛び回った話は広く知られていました。多武峰は別名を談山(かたらいやま)と呼ばれますが、これは皇子と鎌足がこの地で入鹿征伐を語らったとの故事から付けられた名前です。

 当然、入鹿の首はここにも飛んできて、首が落ちた夜は天地が大いに鳴動しました。入鹿の首は天から落ちて辺りを騒がすだけでなく、とうとう敵である鎌足を追いかけまわすようになります。飛鳥寺の西方の田圃にも鎌足を追い回す首の怨念を鎮めようと、供養のため “蘇我入鹿首塚” が建てられました。

 首に追われて逃げ回る鎌足は多武峰を目指し、細川の上流にある氣都倭既神社(きつわきじんじゃ。奈良県高市郡明日香村上)までやって来て “茂古(もうこ)の森” へ隠れます。道端の石に腰を下ろし「ここまではさすがに首ももうこぬだろう」と呟いたのが、“茂古の森”の名前の由来だとか。鎌足の腰掛け石は、今でも境内の手水舎の横に残されています。

 このように入鹿父子の怨霊は主に鎌足に祟って、斉明天皇や中大兄皇子にはさほど酷くは祟っていません。さすがに天皇やその御子を憚ったようです。蘇我氏の怨霊が本当に狙ったのは、蘇我一族を滅亡に追い込みその後釜に座った藤原一族だと言われ、蘇我の怨霊の話を広めたのも朝廷で権力を振るい始めた藤原氏に反発する人々のようでした。

おわりに

 平安時代の初期にはまだ “怨霊” と言う言葉はありませんでした。それでも世上には恨みを残して死んだ者が、死霊となって恨む相手に祟りを成すとの考えが広まりつつありました。

 怨霊は次第に力を持つようになり、次に現れる長屋王の怨霊のように天災や疫病を引き起こすようになります。


【主な参考文献】
  • 武光誠『日本人なら知っておきたい「もののけ」と神道』河出書房新社/2011年
  • 武光誠『すぐわかる日本の呪術の歴史』東京美術/2001年
  • 山田雄司『怨霊とは何か』中央公論新社/2014年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。