城をめぐる戦いというのはある種の「最終決戦」の様相を呈し、ひとつの勢力の拠点的な城が落ちることはその衰亡に直結することでもありました。そんな有名な例の一つが近江の「小谷城」です。
信長の妹「お市」の最初の嫁ぎ先である、「浅井長政」が最後の城主を務めたことでも知られています。
今回はそんな小谷城の歴史についてみてみることにしましょう。
「小谷城」とは現在の滋賀県長浜市湖北町、標高約495mの小谷山に築かれた山城です。
街道の結節点という交通の要衝にあり、峻険な山岳地と河川・琵琶湖に守られた天然の要害で、北近江を本拠とした「浅井亮政・久政・長政」の三代にわたる居城として知られています。
正確な築城年は定かではありませんが、おおむね大永4(1524)年頃には「浅井亮政」によって築かれたと考えられています。
大永5(1525)年には近江国守護の「六角定頼」に攻められ、亮政が小谷城に籠城してこれを迎撃しています。
六角氏と浅井氏との抗争は続き、天文7(1538)年に六角定頼の再侵攻を受けた際には亮政が小谷城を脱出。美濃に一時逃亡するという事態となります。
亮政の子「浅井久政」が当主の時代には、浅井氏は事実上六角氏に臣従する形となっていましたが、その子の「浅井長政」が永禄3(1560)年に「六角義賢」に勝利、浅井氏の独立を実現します。
浅井長政といえば織田信長の妹・お市の方を娶って織田氏と同盟を結んだことが知られています。
これは越前の朝倉氏と織田氏の不戦条約を仲介してのことでしたが、元亀元(1570)年に信長は条約を破棄して朝倉氏を攻撃。浅井長政は朝倉氏を援護し、織田と対立関係となります。
織田と浅井・朝倉連合軍との戦いでは、織田方は峻険な自然地形を巧みに要塞化した浅井氏を攻めあぐねたことが伝わっています。
なかでも中核となる小谷城は難攻不落だったため、織田方は元亀元(1570)年に周辺の「横山城」、元亀3(1572)年に正面の「虎御前山」などを攻略し、段階的に包囲網を完成させていきました。
最終的に小谷城が落城したのは天正元(1573)年の「小谷城の戦い」のことで、この時に浅井長政は妻子を逃がし、「茶々・初・江」の「浅井三姉妹」が後に歴史に大きな影響を与えることはよく知られています。
この浅井攻めで武功をあげた「羽柴秀吉」は小谷城と浅井氏の旧領を与えられますが、天正3(1575)年に「長浜城」が完成すると本拠を移転。小谷城は同時期に廃城となりました。
戦国期の大規模な山城遺構を残す小谷城は、1937年(昭和12年)に国の史跡として指定されました。
小谷城は「日本五大山城」の一つとして数えられることがあり、周辺の尾根や谷筋を有効利用した南北に長い天然の要害でもあります。
非常に多くの郭と5~10mにもおよぶ堀、また当時の山城には珍しい大規模な石垣を有するなど、その先取的な構造が知られています。
織田軍の侵攻を食い止めたのには本城の堅固さもさることながら、周辺の支城による防御網がより小谷城を攻めにくくしていたことがうかがえます。
小谷山のピークには「大嶽城」があり、小谷城主郭よりも100mほど高所に位置しています。
元亀年間に連合軍の朝倉勢が駐留したとされ、遺構からは小谷城主郭のそれよりも高度な土木技術が用いられたことが想定されています。
一説には浅井三代の祖、亮政の時代には小谷城主郭がここにあったともされ、同時代の古記録にも「大嶽」の名が確認されています。
西を琵琶湖に守られ東へは美濃、北へは若狭、南へは南近江といった交通の要衝でもあり、戦略上の重要拠点になるべくしてなった土地であるともいえるでしょう。
小谷城落城による、浅井長政とお市の方の悲劇の別れはあまりにも有名です。
織田氏の台頭にともない、周辺勢力とのパワーバランスに翻弄された運命はいまなお哀愁を誘います。
史跡として登山できるため、見学の際にはそんな歴史に思いを馳せるのもよいのではないでしょうか。
※参考:略年表
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘がありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。