【解説:信長の戦い】姉川の戦い(1570、滋賀県長浜市) 信長、復讐に燃えた浅井討伐の第一戦で圧勝!?
- 2023/04/22
元亀元年(1570)6月、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍との間で起こった「姉川の戦い(あねがわのたたかい)」。小谷城のふもとを流れる姉川を舞台に、繰り広げられた合戦です。
結果は織田・徳川軍の“圧勝”と言われることもありますが、果たして本当にそうだったのでしょうか。姉川の戦いが浅井・朝倉両氏にもたらしたダメージとは、いかほどのものだったのでしょうか。
結果は織田・徳川軍の“圧勝”と言われることもありますが、果たして本当にそうだったのでしょうか。姉川の戦いが浅井・朝倉両氏にもたらしたダメージとは、いかほどのものだったのでしょうか。
合戦の背景は?
浅井長政の裏切り
元亀元年(1570)4月、織田信長は朝倉攻め「金ヶ崎の戦い」の最中、同盟者の浅井長政から裏切りを受けています。信長の妹・お市の方を娶(めと)っていた浅井長政は、信長にとって義理の弟にあたる人物。信長は彼をかなり信頼していたと考えられています。ところが長政は突如、越前・朝倉方へと寝返ったのです。
浅井の裏切りの報せはにわかには信じられないものでした。しかし、まごまごしていては朝倉・浅井軍から挟み撃ちにされる危険があるため、信長は即座に“撤退”を決断します。
そして、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)や明智光秀らを殿軍(しんがり)として残し、なんとか京都へと戻ることができました(金ヶ崎の退き口)。
信長の性格
ところが信長は厄介な人物で、侮辱されたらやりかえさないと済まない性格であったと伝わっています。当然、大事な場面で自分を裏切った浅井長政を許せるわけもなく、浅井を攻める好機をうかがっていたのです。こうして信長の復讐劇が始まるというわけですね……
(o ̄ー ̄o) フフフ。
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合戦の経過と結果
有力国衆・堀秀村の寝返り
意外にもリベンジのチャンスはすぐに訪れました。同年の6月中旬、北近江の有力国衆であった堀秀村(ほり・ひでむら)が、浅井方から信長方へ寝返るというのです。浅井攻めを決めた信長は6月19日、軍勢が整っていない状態で岐阜城を出陣します。金ヶ崎の退き口で京都に戻ってから、わずか2か月後の出来事でした。今すぐにでも、恨みを晴らしたかったのでしょうね……。
堀秀村の寝返りの報せを知ると、浅井方の長比(たけくらべ)砦と苅安(かりやす)砦(いずれも現滋賀県米原市)の兵たちは退散します。そして信長は、堀の持ち城であった長比砦に入り、家臣たちの軍勢を待ちました。
小谷城への攻撃
6月21日には、浅井氏の居城であった小谷城(現滋賀県長浜市)への攻撃を開始します。森可成・坂井政尚・斎藤新五らに城下町を焼き払わせた信長は、小谷城から南わずか2kmの場所に位置する虎御前山(とらごぜやま/八相山とも)に着陣しました。
さらに翌日も、柴田勝家・佐久間信盛・蜂谷頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀らに命じ、隅々まで焼き払わせるという徹底ぶりでした。
作戦変更による退却
小谷城への攻撃を続けると思いきや、信長は早急な攻撃を諦めます。というのも、小谷城は琵琶湖からの比高300mという、険しい山上に造られた天然の要害。戦国屈指の巨大な山城だったからです。力攻めを行えば、多くの犠牲者が出ることが容易に想像できます。
そこで信長は作戦を変更し、小谷城から南方に9kmにある横山城(現長浜市)を落とすことにしました。
横山城は、小谷城と佐和山城(現滋賀県彦根市)の中間に位置する城。ここを落とせば、城同士の連携を遮断することができます。すなわち信長は、横山城を足掛かりとして小谷城を攻めるという、長期戦に持ち込もうとしたのです。
6月22日、作戦変更を受け、信長軍は一斉に小谷城から南へと退却します。このとき小谷城からの追撃をかわすために殿軍を務めたのは、簗田広正・中条家忠・佐々成政の3名でした。
いずれも馬廻の身分で兵力の乏しい3人でしたが、見事な活躍によって無事に味方を竜ケ鼻(たつがはな/姉川の南岸)(現長浜市)まで移動させることに成功しました。
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両軍に援軍が到着する
6月24日には、織田軍は3万という大軍勢でもって横山城を包囲します。横山城は南北8kmにも及ぶ、細長い丘陵の上にありました。そこで木下藤吉郎や柴田勝家などといった ”精鋭部隊” を分散配置することで、長い城を囲ったのです。城への攻撃を開始した頃、同盟者である徳川家康が5000ほどの兵を率いて合流しました。
一方その頃、敵の浅井方にも援軍が到着します。
朝倉義景の家臣・朝倉景健(かげたけ)を主将とする、およそ8000の軍勢でした。すると浅井長政は総軍6000の兵を率いて、小谷城を出陣。朝倉軍と合流して、大依山(おおよりやま/現長浜市)に陣を構えたのです。
姉川を挟んだ遭遇戦に
6月27日の夜、浅井軍は密かに野村(現長浜市)に着陣します。さらに朝倉軍も引きずられる形で、三田村(現長浜市)へと移動しました。
上記の布陣図をご覧いただくとわかるように、両軍は姉川をはさんで対峙する格好になったのです。織田・徳川軍はびっくりですね。ですがもう、この状況で両軍の衝突は避けられなくなりました。
6月28日の朝10時頃、戦いが始まります。
織田軍は浅井軍、徳川軍は朝倉軍と、それぞれ真正面にいる敵へと攻めかかりました。さらに信長は、横山城にいた美濃三人衆に数えられた氏家直元(ト全)と安藤守就を姉川へと呼び、自軍の右翼に配置しています。
このときの兵力は、浅井・朝倉軍がおよそ1万4000、対する織田・徳川軍は2万超だったといいます。川を隔てているとはいえ、戦場は平地。そこで人数の多い織田・徳川軍のほうが、終始優勢だったと考えられています。
有名なエピソードは後世の創作だった!?
さて、『信長公記』(信長の旧家臣・太田牛一が著した伝記/1600年頃成立)に描かれた姉川の戦いの様子は、非常にあっさりしたものです。「六月二十八日卯の刻、東北へ向かって一戦に及んだ。敵は姉川を渡って攻め寄せた。互いに押しつ押されつ散々に入り乱れ、黒煙を立て、鎬を削り、鍔を割り、ここかしこでそれぞれの活躍をし、ついに追い崩した。」
一方、他の史料には、姉川の戦いにおけるエピソードが残されています。
『浅井三代記』(17世紀後半成立)という史料には、浅井軍の磯野員昌が織田軍の十三段の備えを十一段まで打ち破り、信長の本陣まで肉薄したと書かれています(員昌の姉川十一段崩し)。
また、徳川軍の活躍によって、ピンチに陥っていた織田軍を救ったという逸話も残っています。
徳川軍の榊原康政が西から迂回し、横から朝倉景健軍を突いたことで勢いを止め、その隙に織田軍が朝倉軍に攻めかかったとされています。
しかし、これらのエピソードは江戸時代の創作という見方が強くあります。
当時はなにせ、徳川の世でしたからね。そもそも「姉川の戦い」という名称すら、徳川方が名付けたものなのですから!こちらの戦いには「野村合戦」「三田村合戦」といった別称がありますよ。
地名に残る激戦の様子
正確な数はわかりませんが、姉川の戦いにおける死者は、双方に数千人は出たようです(『東寺光明講過去帳』)。犠牲者の血によって姉川は赤く染まったといい、古戦場の近くには「血原」「血川」といった、おどろおどろしい地名が今も残されているんです。
ここからも激戦の様子がうかがえますね。
浅井・朝倉軍の退却
負けを悟った浅井・朝倉軍は、北国脇往還(ほっこくわきおうかん/北国街道と中山道を連絡する道)を通り、北へと退却します。織田・徳川軍は小谷城付近まで追撃しましたが、やはり小谷城は容易には落とせないとして引き返しました。
こういった経緯から、姉川の戦いの勝者は織田・徳川方とされています。
戦後
姉川での合戦後には、横山城が織田方に落ちます。そこで木下藤吉郎を城番に任命し、浅井氏攻略の拠点としました。さらに、丹羽長秀らに佐和山城を包囲させ、翌年の元亀2年(1571)2月に開城させています。一方、姉川の戦いから3か月後、今度は浅井・朝倉軍が信長の留守(当時は石山本願寺との戦いの真っ最中でした)を狙って、京都へと進軍してくるのです(志賀の陣のきっかけ)。
そんな力が残っていたということは、浅井・朝倉氏にとって姉川の戦いの敗北は、決して“致命的な”ダメージをもたらすものではなかったと考えられますよね。
おわりに
姉川の戦いは信長にとって、自分を裏切った浅井長政への復讐の“第一戦”でした。織田・徳川軍が勝利したとはいえ、致命的なダメージを与えられたわけではなかったようです。その証拠として、その後信長と浅井・朝倉との対立はおよそ3年間も続いています。和解をせざるを得なかった「志賀の陣」を経て、朝倉氏を滅亡させた「一乗谷城の戦い」、続く浅井氏を滅亡させた「小谷城の戦い」によって、ようやく浅井・朝倉への復讐が終わったのです。
“積年の恨み”を果たすことのできた信長は、さぞご満悦だったことでしょう。浅井久政・長政親子と朝倉義景のドクロに金を塗って、盃にしたと伝わっているくらいですからね……。
【参考文献】
- 矢部健太郎『超ビジュアル!歴史上人物伝 織田信長』(西東社、2016年)
- 加唐亜紀『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』(西東社、2014年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- WEB歴史街道「姉川の戦い~織田・徳川と浅井・朝倉が大激戦」
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