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有楽町の歴史 日本有数の劇場の町…江戸城に徳川家康が入ってから大名屋敷街に発展!

 東京駅に近く、帝国劇場や日生劇場、東京宝塚劇場などがあり、都内でも有数の劇場の町と言われる「有楽町」界隈。実は地名の由来は戦国時代の歴史人物の名前という説もあり、歴史の深い地域でもあるのだとか。

 今回は訪れたことはあっても意外に知られていない「有楽町の歴史」を簡単に紹介いたします。

有楽町の歴史

 有楽町ははるか昔、まだ東京湾が広がっていて半分ほどは海だったとされています。出土品から、1300年頃には陸地であったことがわかっているそう。

 大きく変わったのは江戸時代に入ってから。江戸城に徳川家康が入り、一帯は埋め立てが進みました。そして有楽町周辺は江戸城にも近い場所であったことから、大名屋敷街となっていきます。

 1707年には南町奉行所として公の役割を果たすようになっています。南町奉行所は大岡越前でも有名で、ドラマなどの舞台にもなっているのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

 明治に入ると、新政府に政権が変わり、南町奉行所から南市政裁判所へと機能が変わります。さらにその後は東京府が設置され、市政裁判所も廃止されてしまいました。一時は練兵所が設置されるなど、時代によって有楽町の歴史は大きく変わっていったようです。

有楽町の地名と由来

 この「有楽町」という地名ですが、実は戦国時代に活躍した武将である織田信長の弟「織田有楽斎(おだうらくさい)」に由来するそうです。大河ドラマ等でも登場し、重要な役どころを果たしていたりするので覚えている方もいらっしゃるかもしれません。

 織田有楽斎は信長が本能寺の変(1582年)で倒れた後、秀吉と家康の対立時には一旦は家康方についたのですが、最終的には秀吉に従い、御伽衆として所領を与えられました。秀吉死後の関ヶ原合戦(1600年)では家康方についています。

 血縁的には淀の方の叔父でもあるため(淀の方の母「お市」と織田有楽斎は兄妹)、豊臣秀頼を補佐することになります。争いを望まない有楽斎は、豊臣 vs 徳川となった大坂の陣(1614、15年)において、両者の衝突を回避するべく尽力しました。しかし無念にも開戦となってしまったことがきっかけで隠居。晩年において茶道の道を究めたといわれています。

 有楽斎は家康から数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺に屋敷を与えられ、住んでいましたが、時代とともに空き家になり、人々は屋敷のあったあたりを「有楽原」と呼ぶように…。このことから明治になって正式に地名として「有楽町」と名付けられたといいます。

演劇の町

 有楽町に「有楽座」という劇場がオープンしたのは1908年(明治41年)です。日本最初の西洋式劇場として人気を集め、明治末期以降に近代的な演劇の確立運動がおこった「新劇運動」の先駆けとなりました。

 有楽町駅が開業したのは、それから2年後の1910年のこと。そして翌年には帝国劇場が開場。賑やかな町になってきた1930年代頃、次々と劇場がオープンし、界隈はますます発展します。この頃オープンしたのは日劇(1933年)東京宝塚劇場(1934年)、日比谷映画劇場(1934年)などです。

 そして現在話題となっているのが、帝国劇場の改修です。

 帝国劇場が開場したのは1911年ですが、当時の建物はすでに建て替えされており、現在の劇場は1966年に竣工した2代目です。しかしそれでも半世紀以上にわたって使用されていて、老朽化が目立ってきたため、2025年2月に休館。現在は解体工事が始まっているようです。

おわりに

 ちなみに3代目となる帝国劇場は2030年に完成予定とか。今のうちに訪れて2代目の雰囲気を記憶しておくのも良いかもしれません。

 有楽町にたくさんある劇場ですが、界隈を歩くと当時のレトロで華やかな雰囲気が味わえるところもありますので、歌劇や舞台好きな方は巡ってみるのもおすすめです。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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