帝国劇場 戦後のエンタメを支えてきた皇居お堀端の名所がもうすぐ消える

老朽化でリニューアルが決定した帝国劇場

 帝国劇場は、内堀通りの景観を構成する名建築のひとつだったが、老朽化などを理由に建替えを決定。59年の歴史に幕を閉じることになった。

 80年代頃まで『日本レコード大賞』の発表会場や年末ジャンボ宝くじの抽選会場として、テレビにもよく映されていた建物。昭和世代には馴染み深い。戦後は数々のミュージカル大作が上演されて〝ミュージカルの殿堂〟〝ミュージカルの帝劇〟などと呼ばれるようにもなっていた。

帝国劇場外観(2023年12月撮影)
帝国劇場外観(2023年12月撮影)
帝国劇場入口エントランス(2023年12月撮影)
帝国劇場入口エントランス(2023年12月撮影)
帝国劇場入口横(2023年12月撮影)
帝国劇場入口横(2023年12月撮影)

ミュージカルの殿堂も、いまはすっかり工事現場に

 今年2月28日にミュージカル『レ・ミゼラブル』の公演終了をもって、帝国劇場は休館となっている。それで、いまはどうなっている?休館から約 2 ヶ月が過ぎた 5 月中旬、現地に行ってみることにした。

 地下鉄有楽町駅の改札を出て、出口の案内板を見る。と、帝国劇場に通じる3カ所の出口の箇所には「閉鎖中」と書かれたシールが貼られ、出口の階段部分は壁とシャッターを取り付けて閉ざされていた。しかし、その一部がガラス張りになっており、帝劇へと通じる階段や柱を覗き見ることができる。常連だったミュージカルファンなら、ガラス越しに眺める階段にも、懐かしい思いが込み上げてきたりするかも?

 内堀通りの反対側にある丸の内仲通り近くの地下通路には、さらに〝名残〟を色濃く感じる場所があった。帝国劇場の建物はオフィスや美術館、飲食店などが入った巨大な国際ビルヂングとの合築で、今回の工事もビルをすべて建替える壮大なプロジェクトだという。ビルの地下には飲食店街があった。地下鉄通路からの出入り口はシャッターで閉ざされているが、エントランスは帝国劇場が健在だった頃のまま。昭和っぽいレトロな雰囲気が漂うレストランの写真パネルもまだ掲示してある。

2025年5月現在、まだ残されているレストランの写真パネル
2025年5月現在、まだ残されているレストランの写真パネル

 地上に出ると、建物はすでに工事現場の柵で覆われ、壁には足場も組まれていた。敷地内はあちこちに資材を置いて、ヘルメットを被った作業員が忙しく動きまわっている。まもなく取り壊しが開始される。

 赤茶色のタイルと黒や銀色の格子、重厚な雰囲気を醸す特徴的な外観は、堀端の風景の中によく馴染んでいた。長年親しまれてきた眺めなのだが、それを見ることができるのもいまのうち。

 丸の内仲通り側にまわってみる。近年は冬のイルミネーションでも有名な場所だ。石畳の道と美しい街路樹、オブジェが点在する広い歩道とか……なんだか、ヨーロッパの街並みを歩いているような感じ。

 建替工事に入る前は帝国劇場の建物も、この通りの雰囲気によく馴染んでいた。歩道に面した建物の前には、カフェのテーブルが並んでいたように記憶しているのだが。いまは工事用の白いパネル壁で覆われ、なんだか、お洒落な通りの中で、ここだけ殺風景な眺めで違和感がある。これも工事期間中の数年間は、仕方のないことだろうけど。

仲通り側からみた劇場
仲通り側からみた劇場

5 年後の堀端の眺めを想像してみれば……

 ここで帝国劇場の歴史を振り返ってみよう。

 初代の帝国劇場が開館したのは、明治44年(1911)のこと。白色の装飾レンガで覆われた4階建てフランス・ルネッサンス様式の外観は、当時は「白亜の殿堂」などと呼ばれて評判になった。

 開館から2年後の大正2年(1913)に作成された宣伝広告のキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」は当時の流行語にもなっている。戦前で最も華やかな時代を象徴する存在だった。当時の東京に増えてきたホワイトカラーのサラリーマン家庭では、帝劇で観劇して三越で食事や買い物を楽しむのが、週末定番の過ごし方だったという。

 初代帝国劇場は関東大震災で被災、骨組みだけを残して焼失したのだが、大改修によって復元され、翌年には営業を再開している。

 その後は映画館に転用され、戦時下では政府施設の庁舎として利用されるなど不遇な時代があった。しかし、太平洋戦争では空襲の被害を受けることなく、占領軍の接収も免れて終戦から2ヶ月後の昭和20年(1945)10月には歌舞伎の公演を開催。終戦直後から日本のエンタメを支えつづけた。

 その後も日本を代表する劇場として使われていたのが、高度経済成長期に入ると、日比谷通りと丸の内仲通りに挟まれた一等地の地価が急上昇。高価な土地を有効利用するために、建物を高層化して共同ビルに建替える計画が持ちあがる。

 建替計画の構想が具体化した昭和39年(1964)3月には、初代帝国劇場の取り壊し工事が始まった。第18回東京オリンピックが開催される半年ほど前のことで、当時の東京は街中が工事現場のような様相。戦前の古い建物も多くが取り壊されていた。それだけに初代帝国劇場の取り壊しは、大きなニュースにならなかったようである。

 昭和41年(1966)9月に、2代目となる現在の帝国劇場が完成した。地上9階、地下6階の国際ビルヂングの床面積のうち、帝国劇場と出光美術館が占める半分ほどのスペースは「帝劇ビル」と呼ばれる。

 外観を見るだけでは、地下のレストラン街や地上 1 階のショップ、4〜8階のオフィス・フロアとの境目は分からないのだが。しかし、館内をじっくり見まわせば床の高さが微妙に違うとか、防火扉の仕切りが設置されているなど、帝劇ビルと国際ビルヂングとの境界が確認できたという。他にも数々のエピソードが残る名建築だったのだが……。

帝国劇場外観(工事前の2023年12月撮影)
帝国劇場外観(工事前の2023年12月撮影)
帝国劇場外観(工事前の2023年12月撮影)
帝国劇場外観(工事前の2023年12月撮影)

 さて、3代目となる帝国劇場は2030年に完成予定で、一体となって再開発される国際ビルヂングとあわせて、地上29階、地下4階の超高層ビルになるという。皇居外苑を眺める低層屋上テラスを整備するなど、皇居に面するお堀端の眺望を最大限に活かしたデザインになるという。しかし、どんなものが建っても違和感をおぼえると思う。

 昭和生まれの私には、この堀端を歩いた時に、いつも視界に映っていた赤茶色の2代目帝国劇場の建物が目にすっかり焼きついている。5年後に生まれる新しい景色、それを受け入れて目に馴染ませるには、少し時間がかかりそうだ。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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