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紫式部のライバル・清少納言の一生と気になる紫式部との関係は?
- 2024/04/08
「光る君へ」で話題の平安時代。「源氏物語」の作者である紫式部の生涯を描いたドラマですが、作中にも登場するのが同時期に活躍した女流歌人・作家である清少納言です。
二人はなにかと比べられることが多いのですが、実際にはどんな関係だったのでしょうか?今回は清少納言の生涯にも触れながら、紫式部との関係をひも解いていきたいと思います。
二人はなにかと比べられることが多いのですが、実際にはどんな関係だったのでしょうか?今回は清少納言の生涯にも触れながら、紫式部との関係をひも解いていきたいと思います。
【目次】
清少納言の生涯
清少納言は966年頃に誕生。紫式部よりは7歳ほど年上という説が有力です。父は歌人としても有名な清原元輔(きよはらのもとすけ)で、幼いころから和歌を嗜んでいたそう。十代の頃に橘則光(たちばなののりみつ)と結婚しましたが離婚。その後、歳の離れた藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚します。一条天皇の后であった藤原定子に仕えていましたが、藤原定子が25歳の若さで亡くなった後、宮廷を去ります。
実はその後の消息はあまりはっきりわかっていません。夫にしたがって赴任地へ行ったとも、晩年は東山近くで余生を送ったとも言われています。どちらにしろ、華やかな最期ではなかったようだと伝わっています。
清少納言と紫式部の実際の関係は?
大河ドラマ「光る君へ」では二人は会ったことがある設定になっていますが、実際面識はなかったのではないかという説があります。
紫式部も清少納言も女房として宮仕えをしていますがその時期は異なり、(紫式部の方が後になります)、さらに仕えていたのも別の方です。そのため、二人は当時ライバルとして意識し合うことも少なかったのでは?と思われています。
宮中では間接的に意識しあっていたかもしれない?
清少納言が仕えていたのは藤原定子、そして紫式部が仕えていたのは藤原彰子の女房です。藤原定子と藤原彰子はともに一条天皇に入内しており、天皇の后としてふさわしい女性であるように意識しあっていたことは間違いありません。さらに藤原定子の父・道隆と兄・藤原伊周と藤原彰子の祖父・藤原兼家と父・藤原道長はライバル関係にありました。こういった背景もあり、清少納言と紫式部は主君を通してライバルであったとも言えるかもしれませんね。
清少納言と紫式部の直接のやり取りは?
清少納言は枕草子の一節(第百十四段 あはれなるもの)の中で、紫式部の夫であった右衛門の佐宣孝(藤原宣孝・紫式部の夫)という人は華美な服を着て場違いだ…というような批判をしています。しかし当時はまだ紫式部の夫にはなっておらず、直接紫式部を批判したものではありません。しかし紫式部はこのことを覚えていたのかどうか、後に「紫式部日記」の中で
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名(まな)書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」
と清少納言の悪口を言っています。
現代風に訳すと
「清少納言は得意顔をしていてとんでもない人だったようです。利巧ぶって漢字を書き散らしていても、程度が低く足りない点だらけ」
というような感じです。
紫式部は清少納言に対してあまり良いイメージを持っていなかったようですね。
相容れなかったのは性格の違い?
二人が仲良くなれなかったのは、もちろん宮中の権力争いや、作風の違い、また周囲からライバルのような扱いをされたことが一因にはありますが、研究者の間ではその性格の違いが要員だったのでは?と言われています。紫式部は控えめで、宮中でも人前で知識をひけらかさない大人しい人だったよう。一方清少納言は積極的で自分の知識をレクチャーする堂々とした態度をとっていたそうです。このように、どうしても理解し合えない性格や考え方の違いが二人にはあったのかもしれませんね。
紫式部と清少納言の関係
知れば知るほど、人間味を感じる平安時代の人間関係。どこか現代にも通じるものがあり、面白味も感じられます。より興味をもった方は、当時の文献を読んでみたり関連する史跡を訪れてみるのもおすすめです。
<参考>
「清少納言」「紫式部」wikipedia
「紫式部日記 現代語訳付き」山本淳子訳
「枕草子 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」谷口 広樹他
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