日本の土地は誰のもの?荘園以前の状況

 世界には土地所有の概念を持たない人々もいるそうですが、日本では土地は大切な所有物です。近頃は「負動産」などの言葉もありますが、一般人にとって土地はやはり一番の財産です。日本の土地はいつからだれのものになったのでしょうか?

土地所有の争い

 大昔、人間が獣を追って走り回っていたころには土地所有も何もなかったでしょう。人々が定住し耕作が始まると、収穫量の良い土地を巡っての争いや畑の境界線争いも起きてきますし、まず自分の住む場所も守らねばなりません。土地は大きな価値を持つものとなりました。

 古代日本において、土地所有に関係したと思われる記述がみられるのは、中国の『漢書』です。『漢書』には地理志の項目があり、その中に「夫楽浪海中有倭人・・・」とのくだりがあります。それによると「日本は100以上の国に分かれて、季節ごとに我が国に朝貢して来る」だそうです。

 なぜ貢物などするのか? 漢と言う大帝国に自分の国の正統性を認めてもらい、その国土を周りの国の侵略から守って欲しかったのです。当時の日本には全土を治める強力な中央政権もなく、現在は自分の土地であっても武力で守り抜かねば明日は誰のものになっているか分かったものではありません。これは邪馬台国の女王卑弥呼の時代から300年ほど遡ったころの話です。

「大宝律令」成立

 大宝元年(701)、文武天皇に仕える藤原不比等を中心として編纂された、わが国初の本格的な “律令” である「大宝律令」が完成し、日本は律令国家となりました。“律” は刑法を指し、“令” は行政法を指す、つまり日本は中央政権による法治国家としての体制をきちんと整えたのですね。

 それ以前の天智天皇による近江令や天武天皇の飛鳥浄御原令は、内容や存在自体がともにはっきりしません。“律”6巻 “令”11巻の「大宝律令」も原文は失われましたが、一部が『続日本紀』や『令集解』などで確認できます。

 これらの法令が整う以前、日本の土地は、ヤマト王権の首長である大王が屯倉(みやけ)、各地の豪族が田荘(たどころ)と呼ばれる土地を私有していました。また、大王は子代(こしろ)、豪族は部曲(かきべ)と呼ばれる私有民を持っており、それぞれの土地で働かせていました。

 しかし律令制下ではそれらは一旦廃止され、土地と民は総て国のものとの “公地公民” が原則となります。「大宝律令」での “公地公民制” は国家が田畑を農民に分配して生活を保障し、男女別や年齢に応じた課役をしっかり徴収するための制度でした。

 大化2年(646)、孝徳天皇の元で発せられた大化の改新の詔にも “公地公民” が定められていますが、現在この “詔” の信憑性には疑問符が付けられています。

班田

 田畑を農民に割り当てることを “班田(はんでん)” と言います。中国の均田制に倣った制度で、原則6歳以上の者に “口分田(くぶんでん)” が与えられます。男子には2反、1反は360歩なので720歩約12アールが、女子にはその3分の2の480歩8アールが、独立農民に使われている奴婢にも男奴婢には240歩が、女奴婢には160歩が与えられました。

 当時の農家は20人から30人の大人数が1家を形成しており、国家はこれを一戸として勘定し、一人ずつが支給される “口分田” を “戸” ごとに合計して与えました。30人の合計ですから一戸がもらえる土地は結構な広さになります。班田制度は課役を漏れなく徴収するための制度ですから、各戸の構成員の名前・性別・年齢・続柄・身分をしっかり戸籍で把握します。

 “口分田” は生涯割り当てられた人間のもので売ることは出来ません。そして本人が亡くなると国に返します。売ることは出来ませんでしたが、借金のかたに押さえる事は出来たようです。

条里制

 口分田を割り当てるにはまず、田畑の位置・境界をはっきり確定せねばなりません。土地の境界争いはいつの時代でも問題になっていますからね。国は土地を碁盤の目状に整理し、これを “条里制”と呼びました。

 1町の面積(約109m四方で1.2ヘクタール)を持つ “坪” を基本単位とし、1坪をさらに10等分してその小さな区画を1反もしくは1段と決めます。

坪の内部の地割は10等分(=1段歩×10)に地割りされている(出典:wikipedia)
坪の内部の地割は10等分(=1段歩×10)に地割りされている(出典:wikipedia)

 そして 上記の“坪” を縦横に6つずつ36個、つまり36坪分を並べたものを “里(り)” と呼び、“里” の南北の並びを “条”、東西の並びを “里” と呼びます。

“里”は36個の坪が並んだもの(出典:wikipedia)
“里”は36個の坪が並んだもの(出典:wikipedia)

 “条”、“里”、“坪”には番号が付けられ、「○○郡◎条□里△坪」と言えば、どこそこの土地を指しているとすぐにわかるようになりました。

“里”(1~36個の坪)は、条・里・坪の番号を呼ぶことで地点の指示を明確にした(出典:wikipedia)
“里”(1~36個の坪)は、条・里・坪の番号を呼ぶことで地点の指示を明確にした(出典:wikipedia)

 “条里制”については班田割り当てではなく、貴族や大寺院の農地開発が元になったとの解釈があります。また班田割り当てそのものが飛鳥時代にはすでに見られたとの意見もあります。

おわりに

 制度というものは現実の力関係によりだんだんと変わって行くもので、律令制の元での公地公民制も、自然災害や増え続ける人口に対処できなくなっていきます。やがて “墾田永年私財法(743年)” が現われ、貴族や豪族・武家が広大な土地を所有する荘園制度に変化して行きます。


【主な参考文献】
  • 伊藤俊一/監修『「荘園」で読み解く日本の中世』(宝島社、2023年)
  • 永原慶二『荘園』(吉川弘文館、1998年)
  • 瀬野精一郎『日本荘園史大辞典』(吉川弘文館、2003年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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