伴大納言絵巻に描かれた「応天門の変」 その真相は藪の中?

炎上する応天門(『伴大納言絵巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
炎上する応天門(『伴大納言絵巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 放火なのか失火なのか、事故だったのか総てが仕組まれた事だったのか。国宝『伴大納言絵巻』にも黒煙を上げて燃える門と驚き騒ぐ人々が描かれていますが、いまだに真相不明なのが貞観8年(866)に起きた応天門炎上事件です。

応天門炎上

 貞観8年(866)閏3月10日の深夜、平安京の大内裏にある朝堂院の正門・応天門が炎上します。

 朝堂院は天皇が政務をみる殿舎であり、天皇の即位式や国儀大礼を行う大切な場所です。その正門の応天門は朱塗りの豪華な門で、現在京都の平安神宮の応天門は8分の5サイズで再現したものです。

平安神宮の応天門。平安京の応天門を縮小復元したもの。
平安神宮の応天門。平安京の応天門を縮小復元したもの。

 その大事な門から深夜突然火の手が上がり、乾いた季節のせいもあって左右の栖鳳楼(せいほうろう)と翔鸞楼(しょうらんろう)もあっという間に炎上、焼け落ちてしまいました。

 門の消失に都人の受けた衝撃は大きなものでした。実は3年前の貞観5年には春先から都に疫病が蔓延多くの死者を出しており、2年前には富士山や阿蘇山が噴火していたのです。そこへもってきて今度の応天門の消失に人々は慄きます。

人々:「怨霊の祟りじゃ」

炎上する応天門をみて騒ぐ人々(『伴大納言絵巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
炎上する応天門をみて騒ぐ人々(『伴大納言絵巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 朝廷は、世上に不安が広がってはまずい、と社寺に神仏の加護を祈願させ、騒ぎ立てる者を検非違使庁に引っ張るなど、懸命に世間の動揺を押さえます。

 そんなところへ大納言・伴善男(とものよしお)が訴え出ます。

伴善男:「応天門が焼け落ちたのは付け火が原因で、指図をしたのは左大臣・源信(みなもとのまこと)だ」

藤原良相:「大納言の位にある男が滅多な事は言うまい」

 訴えを受けた右大臣・藤原良相(よしみ)は、参議の藤原基経に命じて源信を捕縛させようとしました。

 時の清和天皇の後見である藤原良房が大病を患って政務を退き、仏教三昧の暮らしを送っていた当時、左大臣の位にある源信は、事実上の公卿のトップでした。

             嵯峨天皇
 ┏━━┳━━┳━━━┳━━━┫
源勤 源融  源信 仁明天皇 源潔姫
           ┃   ┃
         文徳天皇  明子

※参考:源信の略系図

藤原順子・藤原良相・伴善男連合

 実は良房が半ば政界を引退した隙を突いて、仁明天皇の女御で現在は太皇太后の位にある藤原順子(のぶこ)とその信頼を得ている良相、太皇太后宮大夫を務める伴善男の3人が結託、政権を恣意的にゆがめようとしていました。

 この3人は、源信や中納言・源融(とおる)・右兵衛督・源勤(つとむ)兄弟らと対立、応天門炎上事件を利用して一気に源信を追い落とそうと企んだのです。

         藤原冬嗣
 ┏━━┳━━━┳━━┫
良相  順子  良房 長良
    ┃   ┃  ┃
  文徳天皇 明子 基経
        ┃
      清和天皇

※参考:藤原良房の略系図

 清和天皇も良相らの言葉を信じて源信を断罪する気になっていました。しかし源信の捕縛を命じられた基経は、良房の養子だったために良相に問います。

基経:「左大臣を捕えるほどの大事を太政大臣である良房殿に知らせなくとも良いのですか?」

良相:「良房殿は仏事に専念しているから俗事で煩わせることもないだろう」

 それでも基経は良房の元へ駆け付け、事の次第を知らせます。これを聞いた良房は急ぎ参内、天皇の御前で信のために申し開きをし、天皇も自らの過ちに気付きます。

 良房の娘・明子(めいし)は門徳天皇の女御であり、清和天皇の母親です。つまり良房は外戚の立場をしっかり確立しており、幼少期を母親明子の実家である良房の屋敷で暮らした清和天皇の良房への信頼は篤いものでした。

 良房の進言で信の捕縛は防がれ、応天門炎上事件は放火とも失火ともわからぬまま終わるのかと思われましたが、8月3日になると事態は動き出します。

大宅鷹取:「あの夜、伴善男とその息子の中庸(なかつね)と家人が応天門から走って逃げるのを見た。そのすぐ後で門は火を噴いた」

 下級役人の大宅鷹取(おおやけのたかとり)が訴え出て来たのです。善男らは捕えられて取り調べを受けますが、容疑を否認します。

 事態はややこしくなって来ました。清和天皇は当時17歳で元服して2年目、不穏な世上に嫌気がさして来たところへ、一度は自分が判断を下した応天門炎上事件の真相も怪しくなって来ました。清和天皇は天皇である身が一度下した判断を覆すことも出来ず、事の始末を良房に一任します。

 『日本三代実録』によると、貞観八年八月十九日条に「太政大臣に勅ひて天の下の政を執り行はしめ給ふ」とあるように、良房に摂政となり、うまく収めるように命じました。つまり、押し付けちゃったんですね。

 こうして良房は皇族以外の人間として初めて摂政の座に就きます。

炎上事件その後

 炎上事件ですが、今度は鷹取に訴えられた善男の従者・生江恒山(いくえのつねやま)が、「主人が捕らえられたのは鷹取が訴え出たからだ」と恨み、鷹取の娘を襲って殺してしまいます。恒山は捕えられ、拷問にかけられて白状します。

恒山:「応天門の炎上は中庸の付け火だ」

 一度は嫌疑が晴れかけた善男と中庸ですが、再び厳しい取り調べが行われました。2人は最後まで罪を認めませんでしたが9月22日、主犯の善男・中庸、共謀者の紀豊城(きのとよき)・伴秋実(あきざね)・伴清縄の5人が配流に処されます。

 この事件には分からないところが多いのです。鷹取の娘が死んだのも先に恒山らに襲われ、それを恨んだ鷹取が善男や恒山を陥れようと炎上事件の犯人だと誣告したとも言います。炎上そのものが放火なのか、失火なのかもわかりません。

 人臣として初めて摂政の位に昇った藤原良房ですが、嵯峨天皇に篤く信頼され、その人格の高潔さを愛した天皇が自ら指図して、その皇女で臣籍に下っていた源潔姫(きよひめ)を妻に与えたそうです。

 その一方で、逆に冷徹な政治家であり、応天門事件も原因のはっきりしない炎上事件を利用して、良房が政敵である藤原良相や伴善男らを追い落としたという見方もあります。そもそもの火事もすべては良房が陰で糸を引いていた、との考えもあります。

おわりに

 この事件から程無く、藤原良相と源信という実力者の左右の大臣が急死してしまい、良房は若い清和天皇を摂政として補佐、朝廷の全権を握る立場になりました。

 両大臣の死まで良房の狙ったことではないでしょうが、どちらにしろ後の世の藤原北家全盛の元を築いたのは良房であり、彼の子孫は相次いで摂政・関白となりました。結果としてすべてが良房の思惑通りに運んだとも言えます。

 いずれにしても古来からの名門であり、藤原氏にとって邪魔な存在であった伴氏も紀氏も政界から消えて行きました。


【主な参考文献】
  • 繁田信一『知るほど不思議な平安時代 上』教育評論社/2022年
  • 中江克己『図解 戦いでたどる古代日本史』PHP研究所/2009年
  • 佐藤信『古代史講義戦乱篇』筑摩書房/2019年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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