光秀と朝倉義景 ~信長家臣以前、鉄砲のプロとして朝倉氏に仕えていた!?

一般的に、光秀は斎藤道三・義龍親子の争いによって明智城を攻められた後、朝倉義景を頼って10年余り仕えたとされています。それが今日までの定説として根付いてきたのですが、改めて見直してみると、義景に仕えていたとは断言できないのではないか?そんな疑問も生じてくるのです。

本当に朝倉義景の家臣だったと言えるのか、わかっている情報を取り上げ、筆者なりに考えてみました。

朝倉 義景に仕えた記録

そもそも明智光秀が越前の朝倉義景に仕えていたという証拠の出所はどこなのか。実は、悪名高い『明智軍記』なのです。

この書物は創作性が強く、事実をありのままに記したとは言い難い軍記物であり、歴史を知る一級史料とはみなされていません。しかしそこからの情報に頼るしかないので、朝倉家臣時代の光秀がどんな感じだったのか、紹介しましょう。

鉄砲の名人で軍法に優れた光秀

『明智軍記』によれば、永禄6年(1563)ごろ、義景に仕えていた光秀は鉄砲の名人だったようです。この年、義景の命で鉄砲の腕前を披露する機会があり、光秀は大勢の人が見物する中で100発撃ち、黒星に66、的の角に32を当てたのだとか。9割以上を的に当てる才能を持っていたということのようです。

光秀は明智城から出て諸国を流浪していた時代があり、そのころ各地の情勢や軍法を見聞きしていたことから、軍略に長けた人物であったとしています。

なお、全国各地を旅したという話も『明智軍記』の記述であり、たった2年で全国を歩くというのもかなり無理があるので怪しいです。これは事実ではないという説が有力のようですね。

光秀の鉄砲の腕前が生かされたのが加賀一向一揆との戦い。光秀は鉄砲隊を50数名まとめて戦果をあげ、義景から称賛されて感状と鞍置の馬を賜ったのだとか。

武士としての能力をこのように認められていた光秀ですが、永禄8年(1565)ごろから義景に疎まれるようになります。鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶのたいふつぐとも)が讒言し、光秀は才能や知恵はあるが気質が悪く、やがては謀反を起こす可能性もあると義景にささやいたのです。

義景はこれを信じて光秀を疎んじるようになり、光秀は越前で居心地が悪くなってしまい、織田信長に仕えるようになったのだ、としています。そこに付け加えると、明智城を攻めた張本人である斎藤義龍の子・竜興が美濃攻防戦で信長に敗れ、義景を頼って越前に来たことも、光秀が朝倉の家臣をやめるきっかけだったとか。

朝倉義景について

光秀が義景に仕えたか否か、はっきりしませんが、将軍足利義昭に関連して接触があったことは事実でしょう。主君であったかどうかは別として、一応は関係のある人物です。義景についても少し触れておきましょう。

朝倉義景(1533~73)は、越前国の大名。『明智軍記』や『細川家記』(正式には『綿考輯録』)には、光秀に五百貫の土地を与えた、とあります。

朝倉義景の肖像画
浅井氏の盟友としても知られる朝倉義景

13代将軍足利義輝が暗殺された後、その実弟である義昭を越前の一乗谷に迎え、義昭側近の細川藤孝らとも交流があったとされています。越後へ迎え入れたまではよかったものの、義景は義昭が期待した上洛戦にはまったく乗り気ではなかったようです。そして結局義昭は光秀の橋渡しで信長を頼り、助力を得て上洛することになりました。

これ以降、光秀も信長の家臣になったとされています。義景もこの一件で信長を憎むようになり、浅井長政とともに信長と敵対することになります。元亀元年(1570)の姉川の戦いをはじめ、信長に抵抗し続けましたが、天正元年(1573)の一乗谷城の戦いで大敗し、最期は一族にも裏切られて自害しています。

義景に仕えたのが定説。その根拠は?

大体の明智関連の研究書や書籍では、上記の記録をもとに光秀が義景に仕えていた説に寄っており、定説となっています。

明智研究の金字塔とされているのが、高柳光寿氏の『明智光秀』(吉川弘文館)で、光秀も天下を取りたかったのだ、として野望説を打ち立てた研究者としてしられています。高柳氏のこの書物が発行されたのは昭和33年のこと。それでもいまだ明智光秀や本能寺の変に関しては根強く支持されています。

この中で、高柳氏は以下のように述べています。

「ところで光秀が越前へ行って朝倉義景に仕えていたということであるが、このことについては確証がないが、或いはそれは事実であったかも知れないと思わないではない。」(同書10頁より)

この情報は結局『明智軍記』それから転用したと思われる『細川家記』によるものなので、「確証がない」と言われているのです。

高柳氏も同書で『明智軍記』は信用できず、『細川家記』についてもまるごと信じることはできないとしているのですが、それでも朝倉家臣説が信じられているのはなぜでしょうか。それは高柳氏があやふやな情報を補強する資料として『古案』という古文書集の記事を引いて、家臣説を補強しているからです。

光秀が服部七兵衛尉に宛てた文に、「竹」という人物に百石の知行を与えると記されています。

「竹」だけでは誰なのかはっきりしませんが、服部は義景に仕えた長俊の家臣らしく、この「竹」も義景の近臣だったのではないか。百石の知行を与えるとなると、光秀は「竹」と近しい関係だったと推測される。光秀はかつて義景に仕えたのではないか、 という論を展開しています。

回りくどく、例えるなら「友達の友達は友達か?」という感じで、この文だけではなかなか「やっぱり仕えてた!」と言い切ることはできないように思えます。

明智憲三郎氏は定説を否定

大体の研究が朝倉家臣説を支持している一方で、家臣ではなかったとする説もあります。

明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)では、これを否定しています。根拠は『明智軍記』『細川家記』程度の史料しかなく、高柳氏自身の表現も曖昧で断言できてはいないこと。

では、光秀がこのころどこに属していたのかというと、明智憲三郎氏は「細川藤孝の中間(部下)であり、幕臣だったのだ」としています。

細川藤孝(幽斎)の肖像画
本能寺の変では光秀の誘いに応じなかった細川藤孝(幽斎)

また、義景に仕えていなかったと断言はしないまでも、もともと幕府側の人間であり、義景とは義昭が越前に滞在した際に付き合いが始まり、そこで家臣になったとする見方もあります。

信長に仕える以前の光秀にはいまだ不明点が多い

これまでみてきたように、定説とされてきた朝倉家臣説は、実は根拠すら微妙であったことがわかったかと思います。

改めて見直すにあたって感じたのは、朝倉家臣説の大元である高柳氏の論の中でも、決して断言はしていない、あくまでも推論として、「仕えていたと考えることもできるかもしれない」程度にとどめているような印象でした。

結局のところ、定説と言われていてもはっきりしたことはわからず、「○○によればそうだったらしい」ということが言えるだけです。

信長の家臣となる前の光秀に関しては史料が少なく、その前半生は本当によくわかりません。結論として言えることは、光秀が朝倉義景の家臣であったかどうかは不明だということ。一般的に定説だから正しいのだ、と断言はしかねるということです。光秀に関しては、いまだ研究の余地があるということでしょう。

【主な参考文献】
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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