王朝才女の食卓 紫式部の頭脳飯は「鰯」や「するめ」?
- 2024/11/11
平安時代の食事は朝と夕方の2回でした。ほとんど座りっぱなしの姫君たちはともかく、重い女房装束を着て広い御所の廊下を行きかう女房達はしっかり炭水化物を摂取してカロリーを補給せねばなりません。炭水化物に含まれるブドウ糖を脳に行き渡らせてこそ、殿上人の戯れにも当意即妙の答えが返せるというものです。
私、鰯大好き
ご存知でしょうか? 源氏物語の作者・紫式部は鰯(いわし)が大好物だったとの話があります。丸干しにしてこんがりと焼き、頭から食べるのですが、鰯はすぐに鮮度が落ちて生臭くなるので、当時の貴族からは下賤な魚として嫌われています。また「いわし」は「賤し」にも通ずるとして、これも嫌われる原因でした。
紫式部の鰯好きは子供のころに食べた焼鰯があまりに美味しかったからだそうですが、結婚してからも夫の留守に密かに鰯を焼いて食べていたとか。しかしある時、夫の宣孝が思ったより早く戻って来ます。屋敷中に漂う臭いに気付いた宣孝は皮肉ります。
宣孝:「夫の留守にかような賤しいものを召し上がるのですね」
その時、紫式部は少しも慌てず、やり返しました。
式部:「日本中で流行っている石清水詣で、おなじ “いわし” を食べない人などおりませんよ」
宣孝はぐうの音も出ずに引き下がります。
これは江戸時代の『倭訓栞(わくんのしおり)』に出ている話ですが、元ネタは和泉式部だったと言われます。鰯の体色が紫だったことからいつの間にか紫式部の話になりました。
実際、平安時代に丸干し鰯は租税の一種として大量に納められています。当時の法令集『延喜式』によると、特に備前・備中・備後・安芸・讃岐など瀬戸内地方から多くの鰯が京の都に運び込まれ、それらは庶民の市場で山盛りにして売られていました。貴族の屋敷に納められたものの、主人に嫌われた鰯を召使が横流しして市場で流通させたようです。
基本、味付けは食卓調味
ある日の紫式部の食卓を再現したものがあります。お膳の右側には釜や鍋で炊いた現代のご飯に近い姫飯、その周りに「めぐり」とか「四種器(よぐさのもの)」と言う、醤(ひしお)・酢・塩・酒の4種類の調味料が置かれ、自分好みに味を調えて食べます。当時、味付けは基本的に食卓調味で、「醤」は大豆を中心に米などの穀類を混ぜて塩を加えて発酵させた食品で、醤油や味噌のルーツのようなものです。この派生食品として獣肉や魚肉を塩漬けにした「肉醤(ししびしお)」が作られます。
醤と酢を混ぜたものが「醤酢(ひしおす)」で現在の二杯酢に当たり、魚や貝類の調味に使われました。醤酢にニンニクを潰して加えた物も好まれます。
この他にも干し鰹を煮出して濃縮させた汁や、大豆の濃縮煮汁に酒や塩を入れた「色利(いろり)」もあり、王朝貴族たちは色々に工夫していました。
油飯って何?
お膳の左側は副菜で、魚の煮物に丸干し鰯の焼いたもの、ワカメの和え物・鮑の蒸し物・里芋汁・漬物となかなか充実しています。今少し油っけのあるものが欲しいところですが、現代の食卓から見てもそれほど遜色はありません。そして油っけを補うには「油飯(あぶらいひ)」がありました。油飯とは平安時代の辞書『和名抄』にも載っているもので、「胡麻油で炊いた飯」とあるだけで詳しくはわからないのですが、飯が炊きあがる直前に胡麻油をふりかけて蒸らした飯のようです。再現した人によると、胡麻油の良い香りがして、漬物と合わせると大層美味かったとか。平安時代の主な胡麻の産地と割り当てられた貢納量は、伊予国五石・近江国五石・山城国四石・阿波国四石など西国が産地だったようです。
油飯は美味かったでしょうが普段食べていたのは「姫飯」です。庶民は玄米を食べましたが、貴族階級は七分か八分つきぐらいの精米です。
急に消費量が増えた鮭
縄文遺跡からも鮭の骨は出土していますが、平安時代は鮭の消費量が急拡大した時代です。もちろん食べるのは貴族たちで、鮭の美しい赤みを帯びた魚肉が悪霊や疫病を追い払う力を持つと考えられ、半ば薬のように食べられました。神への供え物として、行事や祝い事には欠かせない魚となり、日本海側から京の都に大量の塩鮭が運び込まれます。都で鮭が重要だったのは上級役人の給料として現物支給されたからで、下級役人へは塩鯖や塩鰯が与えられました。鮭を細長く切り身にして塩をまぶし干したものを「すはやり」といい、削って酒の肴や飯のおかずに用いられます。
宮仕え女房たちは夏はご飯に冷たい水をかけた「水飯」、冬は熱い湯をかけた「湯漬け」を食べることが多かったのですが、これに「すはやり」を取り合わせた鮭茶漬けが何よりの御馳走だったとか。卵の筋子もやはり赤い色が喜ばれました。
するめに梅干しにニンニクも大事な健康食品
貴族たちに好まれた保存食には「するめ」もありました。するめはタンパク質の塊で70%弱がアミノ酸の多いタンパク質です。日持ちがよいするめは、租税の一品として海沿いの各地方から都に大量に搬入され、神饌や貴族の酒肴・食事の大事な副菜として欠かせませんでした。江戸時代の『本朝食鑑』には次のように書かれています。
「鯣は須留女(するめ)と読む。わが国では干し烏賊の名として久しく呼びならわしており、『延喜式』に若狭や丹後・隠岐・豊後より烏賊を貢納するとあるがこれらはみなするめである」
健康食品梅干しもちゃんとありましたが、紫蘇の葉を用いて赤色になるように漬けるのは戦国時代からで、平安時代には塩だけで漬けていました。梅干しの酸味は強い殺菌作用を持っているので、冷凍技術の無かった当時は食中毒や感染症を防ぐのに役立ちました。
ニンニクも平安時代にはすでに摂取されていたようで、『源氏物語 帚木の巻』にも訪ねてきた男を女が「今は風病を治すのに“極熱草薬”を用いているのでその臭いのせいで会えません」と断る話が出てきます。
この極熱草薬がニンニクの事で、どうもこの女は風邪を早く治そうと生のニンニクを叩き潰して服用したようです。一番効き目も早いでしょうが一番臭いもきついのです。
おわりに
他にも紫式部は甘い芋粥や鶏肉入りの若芽汁、一塩ものの鯖を味わったり、多様な木の実・果物などで豊な食生活を楽しんでしました。【主な参考文献】
- 鳥居本幸代『紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし』春秋社/2023年
- 福家俊幸『紫式部女房たちの宮廷生活』平凡社/2023年
- 永山久夫『紫式部ごはんで若返る』シード・プランニング/2023年
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