横浜駅のあのお弁当、崎陽軒シウマイ弁当の始まり
- 2023/10/26
横浜開港鉄道開通、でも36年間売店もなし
安政6年(1859)6月横浜開港、明治5年(1872)5月横浜-新橋間約29キロメートルに日本最初の鉄道が開通し、陸蒸気が威勢よく走り始めます。 最初は「旅客は総て鉄道規則に従ひ旅行すべし」のお達しと、厳めしい肩章付きの制服を着た鉄道職員におっかなびっくりだった庶民も、すぐに鉄路の旅を楽しみ始めます。そうなると旅のお供としての弁当が欲しくなります。
諸説ありますが、日本の駅弁、当初は汽車弁と言った第一号は、明治18年(1885)宇都宮駅での黒ゴマまぶしむすび沢庵2切れ竹の皮包み説が有力です。
明治16年(1883)上野駅説は、同年12月に日本鉄道株式会社から発行された案内に「上野停車場構内弁当料理ふぢのや 浜井啓次郎」との記述があります。また、熊谷駅の弁当に関しては販売場所「駅前」との記述があり、明治16年(1883)熊谷駅説も有力視されています。
この後も次々に各駅で弁当が売り出されますが、そんな中で最初の鉄道駅である横浜駅には長い間駅弁どころか売店もありませんでした。そんな横浜駅にようやく小さな売店が出来たのは明治41年(1908)になってから。横浜の鉄道開通後すでに36年も経っていました。
なお当時の横浜駅は現在の桜木町駅のある場所です。
駅長さん、駅弁屋を目指す
明治41年(1908)、四代目横浜駅長を定年退職した久保久行は、今後の暮らしのことも考え、何か商売を始めようと思います。当時すでに平塚駅には東洋軒、国府津駅には東來軒、大船駅には大船軒などの駅弁屋が店開きしていました。鮮やかに屋号を染め抜いた法被を着こみ、威勢の良い声でホームで弁当を売り歩く売り子たちは、新時代の先端を行く商売でした。そう思った久保。当時退職した駅長が駅売店を開くのは珍しいことではありませんでした。その年の6月、久保はまず資本金3000円で、駅の構内で牛乳やサイダー・寿司・餅などを売る売店「崎陽軒」を開きます。
”崎陽” は久保の出身地長崎の別名から取りました。店開きしたものの、当時横浜駅に入ってくる列車は1日に7本、1日の売り上げはわずか10円程度です。
満を持してのシウマイ販売
それでも崎陽軒は細々と商売を続け、大正4年(1915)いよいよ駅弁販売に乗り出します。その頃横浜駅は現在の高島町付近に移転、売り出した駅弁はシウマイ弁当ではなく、幕の内でしたが、ようやく庶民の足となった汽車での団体旅行も始まり、駅弁の売り上げは順調に伸びていきます。その後、関東大震災(1923)の被害に見舞われたりしますが、崎陽軒は牛丼やカレーライスを売り出し、業績も回復、横浜駅は再度引っ越して現在の地へ落ち着きます。当然くっついて行った崎陽軒ですが、当時の社長だった野並茂吉は再出発にあたり、何か名物が欲しいと考えました。
野並はある日、その頃ぽつぽつと日本人客も増えて来ていた横浜中華街へ食事に出かけます。テーブルに着くと注文もしていないのにシウマイが運ばれてきます。当時は注文のあるなしに関わらずまずシウマイを出して、客が食べればその分の料金を払いました。
食べてみて気に入ったのでしょうか? 野並は駅の売店・崎陽軒でシウマイを売ってみたらと思いつきます。何軒かの店で食べ比べた野並は、腕の良いコックを3人ほど引き抜き「崎陽軒風シウマイ」を作ろうと試みます。
シウマイ売り出し作戦成功するも、日本は戦争に突入
しかしこれがなかなか難題でした。本場のシウマイは一口では食べられないほど大きく皮も厚く、冷えるとごわごわになり、とても食べられるものではありませんでした。あれこれ試したのちに出来たのが直径2cmほどの一口サイズで、調味料にも砂糖を加えて日本人向けにした今日のようなシウマイです。冷えると味が落ちる点はオホーツク海産の貝柱で取った出汁を使うことでカバーし、この味付けは現在まで受け継がれています。
さて、張り切って売り出してみたものの、当初は1日わずか30箱の売り上げ。1箱50銭ですから米一升4円の時代としてはそう高い値段ではありませんでしたが、まだまだ一般に中華料理は馴染みがなかったのです。
このシウマイに社運を賭けていた(かもしれない)崎陽軒は、大PR作戦に乗り出します。”崎陽軒”の名前入り吹き流しをなびかせた軽飛行機を飛ばし、宣伝ビラやシウマイ無料引換券をばら撒きます。当時としては思い切ったPR作戦で評判を呼び、昭和11年(1936)には商標権も確立、昭和13年(1938)には1日3000箱も売り上げる看板商品となりました。
しかしまもなく日本は戦争に突入、肉類統制によりシウマイは製造中止に追い込まれます。崎陽軒は出征兵士の給食業務を引き受けたり、戦時食雑炊を販売したりして何とか業務を続け、戦後は焼け野原の掘立小屋で掻き集めた材料で食堂経営を行い、苦難の時代を乗り切りました。
シウマイ娘の登場
戦後の昭和23年(1948)、崎陽軒は早くも横浜駅ホームで7個入り20円、12個入り40円でシウマイ販売を始めます。旅館に泊まるにも米を持参した時代、このシウマイは大人気を呼び、故郷の土産に買い求める人も多数いました。気を良くした崎陽軒は次の作戦に打って出ます。ここで登場したのが“シウマイ娘”です。
昭和25年、臙脂色のチャイナドレスに身を包み、バスケットにシウマイの箱を山盛り乗せた若い女性が“シウマイ娘”として横浜駅のホームに立ちました。男の売り子が紺の制服姿で「弁当、ベントー」と売り歩く中、艶やかなドレス姿の若い女性が「名物のシウマイお召しになりませんか」と微笑みかける…
勝負ありですね。おまけに“シウマイ娘”は多くの応募者の中から選び抜かれた美女揃いです。
※参考:シウマイ娘の画像(神奈川新聞のHP "カナロコ"の記事より)
昭和29年(1954)になり、営業用米の統制が解除され、ここでやっとご飯が付いたシウマイ弁当が登場します。シウマイ娘は昭和37、8年ごろまで続きましたが、東海道新幹線開通で横浜駅ホームの車窓売りが廃止になるとともに姿を消します。しかしその後の崎陽軒とシウマイ弁当の快進撃は皆様もご存知の通り。
おわりに
シウマイが弁当としてご飯付きで売り出されたのは意外と遅かったのですね。漫画家・横山隆一が百面相を描いた瓢箪型醤油入れ“ひょうちゃん”も、大いに人気を呼びました。【主な参考文献】
- 日本地域社会研究所/編 桐生葉子/著『日本の郷土産業2』(新人物往来社、1975年)
- 木村茂光、安田常雄、白川部達夫、宮瀧交二/著『モノのはじまりを知る事典』(吉川弘文館、2019年)
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