日本人の愛したアイスクリーム 登場はいつ?夢のお菓子を初めて食べた日本人は?

アイスクリームを始めて食べた日本人は誰か?

 その昔、雪の降る国なら誰もが考えた事でしょう。

「冬には雪が降り、氷も張る。これを夏まで残しておいて暑い日に味わえないものか」

 古代ギリシャのアレクサンドロス大王、古代ローマの将軍であるカエサル、ローマ皇帝のネロも、高い山に溶け残った氷を、暑い夏になると都へ運ばせ、蜜やワインをかけて楽しみました。

 日本でも氷室に保存しておいた氷を上流貴族たちが楽しんだのは、『枕草子』にも書かれていますね。しかしこれらはかき氷であってアイスクリームではありません。牛乳を使ったアイスクリームとなると、中世のイタリアフィレンツェでの考案を待たねばなりません。

 ではアイスクリームと初めて出会った日本人は誰なのか? 確かなところでは万延元年(1860)に派遣された、徳川幕府の遣米使節団の一行とされます。彼らはアメリカの軍艦ポーハタン号と、日本の軍艦咸臨丸に分乗してアメリカへ渡りました。サンフランシスコ到着後の歓迎会で出されたのがアイスクリームです。

 使節団の1人、柳川当清(とうせい)は航海日記に次のように書いています。

「また珍しいものがあった。氷を色々に染め物の形が作ってある。いたって甘く口に含むとたちまち溶けて誠に美味い。アイスクリンと言うようだ」

 初めて口にしたアイスクリームはさぞおいしかった事でしょう。この時に初めて日本人の文献にアイスクリームが登場しました。同じ使節団の勘定方・森田清行は「形状は婦人の姿または宝袋、または日本の薄皮餅のよう」と書いていますから、晩餐会用に形にも凝ったのでしょう。

日本で初めて作ったのは町田房蔵

 では日本で初めてアイスクリームを作ったのは誰でしょうか?それは町田房蔵(まちだふさぞう)と言う人物です。

 16歳の彼は使節団の一員として咸臨丸で海を渡り、マッチや石鹼・輪ゴム・氷などの製造工場を見て回るなど精力的に欧米文化を吸収します。この後、町田は再び渡米してそれらの技術を身に付けていますから、優秀な人間だったのでしょう。

 日本に戻った町田は習い覚えた中からアイスクリーム製造を選び、明治2年(1869)横浜の馬車道通りに「氷水屋」を開き、アイスクリームの製造・販売を始めます。当時は材料を氷と塩で冷やして固めました。彼も渡米時に口にしているはずですから、その美味しさに驚き、「これなら売れる」と踏んだのでしょう。

 町田の作ったアイスクリームの材料は生乳に砂糖・卵黄のみといたって単純で、現在のカスタードアイスに当たります。しかし町田の目論見はものの見事に外れます。味はともかく値段が1人前金2分、現在の8000円もしたのですから。金に余裕のある外国人が買っていくぐらいでほとんど売れません。店は大赤字でしばらくして休業してしまいます。

祭りの賑わいで爆売れ

 ところが世の中はわからないものです。翌明治3年(1870)4月、横浜総鎮守天照大御神をお祀りする伊勢山皇大神宮創建の祭に合わせて店を再開すると、おりからの夏のような日差しと祭り景気により、気が大きくなった人々が争って買い求めました。受け取った代金をしまっておく場所にも困るほどで「店はすこぶる繁盛を極め、前年の失敗を取り戻した」そうです。

 この町田の成功を見て「あいすくりん」製造販売を手掛ける人が続出しますが、町田自身はさっさと手を引いてしまい、造船の仕事を手掛けています。そのままあいすくりん屋を続けていても相当儲かったと思うのですが幕臣の家系ゆえでしょうか、菓子屋で終わるつもりは無かったようで、もっとお国の役に立つ仕事を選びました。しかし「日本で最初にアイスクリームを作った男」の称号は語り継がれます。

その後のアイスクリーム

 その後アイスクリームはどうなったのでしょう? どうも牛乳や生クリームをたっぷり使った高級菓子と、街中で庶民や子供相手に売られる「あいすくりん」との二極化が進んだようです。

 明治16年(1883)に建てられた鹿鳴館では、外国の賓客を接待するとして連日連夜園遊会や舞踏会、バザーが開かれます。招待された外国人には当然飲食のもてなしがあり、そこに欠かせないデザートとしてアイスクリームが登場しました。

 明治19年(1886)11月、フランス艦隊の艦長として来日したピエール・ロティが鹿鳴館のレセプションに招かれました。彼はその著書『秋の日本風物』の中で『江戸の舞踏会』と題して、「もてなしにアイスクリームが用意されていた」と書いています。

 明治8年(1875)には日本初の日本人による洋菓子店、東京麹町の村上開新堂がアイスクリームを売り出しています。続いて風月堂もメニューに加え、明治35年(1902)には東京銀座の資生堂内にアメリカ風の“ソーダファウンテン” 現在の資生堂パーラーが開設、アイスクリームとソーダ水と組み合わせたクリームソーダを販売します。

 このように東京の有名菓子店は競ってアイスクリームをメニューに取り入れますが、一皿25銭とまだまだ庶民には高嶺の花でした。

 一方、その頃東京の街中では一杯一銭の “あいすくりん売り” が手押し車を押しながら売り歩いていました。こちらも庶民の間で飛ぶように売れます。

移動式パラソルで販売されているアイスクリン(出典:wikipedia)
移動式パラソルで販売されているアイスクリン(出典:wikipedia)

おわりに

 大正9年(1920)には冨士食料品工業、現在の森永乳業グループがアメリカから大型のフリーザーを取り寄せ、本格的にアイスクリームの量産を始めます。太平洋戦争で酪農生産物が軍に取り上げられ製造は一時製造ストップしますが、戦後甘い物に飢えた人々の要求にこたえて、自転車にアイスボックスを積んでアイスクリームを売り歩く商売が登場、アイスクリームはまた庶民の元に帰って来ました。


【主な参考文献】
  • 上野川修一/編集『ミルクの事典』朝倉書店/2009年
  • 吉田菊次郎『日本人の愛したお菓子たち』講談社/2023年
  • 鳥越一朗『おもしろ文明開化百一話』ユニプラン/2018年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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