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  • 北条五代
 2019/11/11

「北条早雲(伊勢宗瑞)」関東でいち早く戦国大名へ。近年真相が解明されてきた早雲の下克上とは?

北条早雲の肖像画(小田原城 蔵)
北条早雲の肖像画(小田原城 蔵)

戦国時代に関東一円を支配した北条氏(後北条氏)の初代当主「北条早雲」は謎多き英雄です。江戸時代や明治時代に早雲に関する様々な説が登場し、それが通説とされてきましたが、その後の研究によって早雲の真の姿が見えてきました。

はたして早雲はどうやって1代で2ヶ国の支配者となったのでしょうか? 今回は早雲の下克上の経緯を詳しくお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

前半生は室町幕府の奉公衆

早雲の出自は通説では伊勢国の素浪人とされてきましたが、近年の研究によって早雲と「伊勢新九郎盛時」という人物が同一人物であることがわかってきました。(今回はすべて早雲で統一して表記します)

伊勢氏の本宗家は室町幕府政所の頭人を務める重臣です。庶流ながら早雲自身も将軍である足利義尚の申次衆や奉公衆を務めています。これは早雲の母親が伊勢氏本宗家の出であったからです。政所執事を務める伊勢貞親は早雲の叔父にあたります。

早雲の父親は奉公衆の伊勢備前守盛定です。早雲は没年齢から永享4(1432)年生まれというのが通説でしたが、その後の研究によって病没したのが64歳で、逆算して康正2(1456)年生まれというのが有力です。

実際とかなりの年齢差があったことになり、そうなると早雲は32歳まで京都にいて幕府に仕えていたということです。

甥を助けるために駿河国へ下向

小鹿範満を倒し興国寺城城主となる

早雲の姉(妹という説もあり)は駿河国を支配している今川義忠の妻の北川殿です。その義忠が応仁の乱の最中の文明8年(1476年)、遠江国への侵攻中に戦死してしまい、誰が家督を継ぐのかで家中がもめました。今川氏にはよくある家督争いです。

今川範頼と堀越御所執事である上杉政憲の娘の間に生れた小鹿範満を支持する勢力が強く、そこには堀越御所だけではなく、範頼の母方である扇谷上杉氏も介入していました。扇谷上杉定政の執事である太田道灌も兵を率いて圧力をかけています。

この太田道灌を説得したのが早雲といわれており、幼少の龍王丸(のちの今川氏親)が成人するまで範満が名代を務める折衷案で戦を回避しており、その後は京都へ戻っています。

しかし時が経って龍王丸が成人しても、小鹿範満が家督を返そうとはしませんでした。そして道灌が主君に謀殺された翌年にあたる長享元(1487)年、早雲は再び駿河国に下向し、小鹿勢が弱体化したところで範満を討つのです。

こうして甥の龍王丸が今川氏の家督を継ぎ、早雲は恩賞として駿河国富士郡12郷と興国寺城を手に入れました。

伊豆国を制圧

堀越御所を攻略

明応2(1493)年になると堀越御所が内訌で乱れ、それが山内上杉氏と扇谷上杉氏との抗争や、甲斐国の武田信縄と武田信昌との内訌、そして京都の細川政元のクーデターと絡み合い、幕府の意向で早雲が堀越御所を攻めました。

家督相続で争った相手を排除し、武力によって堀越公方を継いだ茶々丸、関東管領の山内上杉氏、甲斐国守護の信縄が手を結び、それに対抗して幕府、相模国守護の扇谷上杉氏、今川氏、早雲が協力した形です。

明応4(1495)年には堀越御所を攻略し、茶々丸を追放。早雲は伊豆国の制圧した領地の年貢を軽減し、地頭の自由な徴収や使役を禁じて民衆の支持を集めました。このとき早雲は拠点を伊豆国の韮山城に移しています。

早雲が出家したのもこの時期と考えられており、早雲庵宗瑞と称しました。早雲を伊勢宗瑞と呼んだり、宗瑞と呼ぶのはそのためです。早雲自身は一度も北条早雲を名乗ったことはありません。北条の姓に改称するのは、早雲の死後、2代目当主となる北条氏綱の時期です。

武田氏との交渉によって伊豆国を制圧

茶々丸の勢力はその後も抵抗を続けており、早雲の伊豆国平定はかなり時間がかかっています。山内上杉氏と武田氏が茶々丸に協力していたからです。茶々丸は山内上杉氏の武蔵国に滞在した後、甲斐国吉田に移り、さらに駿河国御厨に進出し、伊豆国奪還をもくろみます。

しかし明応7(1498)年に茶々丸を切腹に追い込み、早雲は伊豆国制圧を果たしました。前年には武田氏の内訌は和睦という形で終結しており、信縄の茶々丸への協力もここで打ち切られた可能性があります。

早雲方との交渉もあったでしょうから、もしかすると信縄は保護していた茶々丸を早雲に引き渡しかもしれません。どちらにせよ茶々丸の勢力を滅ぼし、早雲はついに一国の支配者となったわけです。

今川家臣として氏親をサポート

ただし、ここまでの流れを整理してみると、早雲は野心によって伊豆国を制圧したわけではなく、幕府や今川氏からの依頼で対立勢力と戦っていた末の結果だったように思えます。頼られたら断れないような信義を重んじ、律儀な性格だったのではないでしょうか。

実際のところ、甥の氏親が今川当主となってからも、早雲は今川家のために色々と動いていたようです。

明徳3年(1494年)文亀元年(1501年)には今川方の大将として遠江国へ侵攻していますし、永正3(1506)年永正5(1508)年にはさらに西の三河国に侵攻しています。

要するに、この時点でまだ今川の勢力に属しており、独力した勢力ではなかったのです。

ちなみに遠江・三河方面における早雲の活躍ぶりは、氏親の記事でより詳しく触れていますのでそちらをご参考に。

小田原城攻略はいつなのか?

北条氏の本拠地として有名な小田原城を攻略したのも早雲です。ただし「いつ」、「どうやって」早雲が小田原城を手に入れたのかははっきりとわかっていません。

軍記物では明応4(1495)年となっていますが、この翌年の段階ではまだ大森氏が城主だったことがわかっています。明応9(1500)年の相模湾地震の後という説が有力であり、少なくともその翌年までには早雲が大森氏から小田原城を奪っています。

小田原駅前にある早雲の騎馬像
小田原駅前にある早雲の騎馬像

大森氏はもともと早雲の味方で扇谷上杉氏側でしたから、山内上杉氏が侵攻してきた際に早雲は大森氏に援軍を出しているのですが、大森氏はここで扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏側に寝返っています。そのため、早雲は大森氏の小田原城を攻めなければならなくなりました。

相模国を制圧

こうして相模国西郡を制圧した早雲は、本格的に相模国全域を支配下におさめるべく動き出すのです。それは相模国守護である扇谷上杉氏との戦いを意味していました。

早雲の勢力が大きくなりすぎたことを警戒した扇谷上杉氏側が、早雲を排除しようとして全面戦争になった可能性もあります。

早雲の戦いと各要所。色塗部分は伊豆と相模国。青マーカーは北条・今川の城、赤は敵方の城。

三浦道寸との戦い

永正9(1512)年8月、早雲は相模国中郡の軍事拠点である岡崎城を攻略します。ここは扇谷上杉氏に属する三浦道寸の領土です。道寸は東郡の住吉城に後退しました。早雲はそのまま鎌倉まで進出し、玉縄城を築城して住吉城攻略を狙います。その後、住吉城も攻略された道寸は、本拠地である三崎新井城へさらに後退しました。

扇谷上杉氏も永正11(1514)年から本格的に援軍を組織して道寸のもとへ出撃させています。永正13(1516)年には扇谷上杉朝興が相模国中郡まで進出しますが、早雲はこれを見事に撃退し、その勢いで天然要塞の新井城を攻略したのです。

道寸はここで討ち死にし、相模国最大勢力だった三浦氏は滅びました。早雲は伊豆国に続き、なんと相模国まで制圧したのです。もはや主君である今川氏をしのぐ勢力となっていました。ただし名目上は今川氏の家臣という立場だったようです。

晩年の早雲

上総国への侵攻

2ヶ国を支配するまでになった早雲でしたが、その勢いは止まりません。

相模国を制圧した3ヶ月後には、上総国に渡海し、東上総の藻原に侵攻しています。この地方では上総国の真里谷武田氏と下総国の小弓原氏が争っていました。もともと真里谷武田氏は相模国の三浦氏とは姻戚関係にあり、早雲とは敵対していたのですが、その三浦氏が滅んだいま、早雲と同盟を結び、協力して小弓原氏を倒した方がいいと判断したようです。

早雲は真里谷武田氏に援軍を差し向ける形で藻原に侵攻し、小弓原方の真名城を攻略しています。そして東上総の二宮庄を獲得しました。

その後、早雲の後を継いだ当主たちが関東にどんどん勢力を拡大していくことになりますが、早雲の活躍はここまでです。

永正15(1518)年2月に当主としての最後の記録が残されており、同年9月には隠居して家督を嫡子の北条氏綱に譲っています。隠居した理由は扇谷上杉氏と和睦するため、とみられています。そして翌年に亡くなりました。

家督争いが起きることなく、しっかり次の世代にバトンを繋いだ早雲の政治的手腕もまた評価すべき点ではないでしょうか。

早雲は検地や印判状の先駆者でもあった!

ちなみに早雲は戦国大名としてはパイオニア的な存在であり、『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となっています。また、戦国大名の中では全国で一番早く検地を行ったことで知られています。

検地のイメージ

時期は永正3(1506)年で、場所は相模国西郡の宮地郷と松田郷です。

こうして年貢高や知行高をはっきりさせながら、西郡から中郡・東郡と侵攻していきました。この時期が早雲にとって、自立の意思を持ち始め、独立勢力としての動きを開始する転換期とも考えられます。

また、永正15(1518)年9月に虎の印判を創出しています。指示をくだす文書にはこの印判が押されるのです。印判状の先駆けです。

亡くなる直前までこのような創意工夫を施すあたりはさすが早雲といえるでしょう。現状をさらに良くするためにはどうすればいいのか、常に考え行動に移していた早雲だからこそ、多くの人が早雲を支持し、1代でここまで領土を広げられたのかもしれません。

まとめ

下克上の代表的な人物であり、「切り崩しの名人」「野心の塊」というイメージのある北条早雲ですが、実際はその統率力が評価されて援軍を請われたために戦い、そのたびに評判や信頼を高めて勢力が広がったという印象です。まさに英雄といえます。

早雲がいなければ、今川氏親が当主になることもなかったでしょう。もちろん北条氏が誕生して関東を制圧することもなかったはずです。

早雲ひとりの登場によって、東海から関東の状況は大きく変わったといっても過言ではありません。その後に登場する多くの戦国大名に大きな影響を与えたカリスマ的な存在が早雲だったのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
  • 湯山学『伊勢宗瑞と戦国関東の幕開け』(戎光祥出版、2016年)
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)



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