豊臣秀吉による小田原征伐 いかにして北条氏政・氏直親子は滅ぼされたのか?

小田原方面の眺望。小田原征伐の際に秀吉が構築した石垣山一夜城から。
小田原方面の眺望。小田原征伐の際に秀吉が構築した石垣山一夜城から。

豊臣秀吉と北条氏政・氏直親子

 天下人の豊臣秀吉にとって、最大の強敵は関八州を支配する北条氏だった。秀吉は北条氏政・氏直親子に上洛を求めたが、親子は応じなかった。その状況下で勃発したのが、天正17年(1589)の名胡桃城事件である。

 天正10年(1582)3月の武田氏の滅亡後、真田昌幸は北条氏と群馬県北部に位置する沼田、吾妻の領有をめぐって争った。秀吉は、「惣無事」(そうぶじ。大名間の私戦の禁止)を政治基調にしていたので、北条氏と真田氏との対立を快く思わず、両者の仲介を行った。

 天正17年(1589)7月、秀吉は北条氏に沼田城と知行地3分の2(沼田領利根川以東)を与え、真田氏には名胡桃城(群馬県東吾妻鳥)と残り3分の1(伊奈郡箕輪領)を与えるという裁定を下した。

裁定後の沼田領(色塗部分)の城の領有マップ。青マーカーの城を北条、赤を真田の領地とした(戦ヒス編集部作成)

 名胡桃城は沼田城(群馬県沼田市)の支城で、利根川上流の標高約430メートルの右岸断崖部に築城された。この場所は、越後国から三国峠を越えて、沼田に入る交通の要衝である。北条氏と真田氏との紛争は、これで一件落着かと思えたが、同年11月に北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪取した。当時、名胡桃城を守っていたのは、鈴木重則だった。

名胡桃城事件の勃発

 邦憲は、重則の配下の中山九郎兵衛を寝返らせることに成功していた。九郎兵衛は偽の書状を作成し、重則を上田城(長野県上田市)に呼び寄せた。その隙に、邦憲は名胡桃城を奪ったのである。城を奪われた重則は、自害して果てた。

 北条氏が名胡桃城を奪取したのは、秀吉の裁定に不満があったからだろう。名胡桃城事件は、「惣無事」に背く重大なルール違反を犯していたので、秀吉が北条氏に烈火のごとく怒り狂ったのは言うまでもない。

 秀吉は北条氏討伐の計画を進める一方で、上使として津田盛月、富田一白の2人を北条氏のもとに派遣した。北条氏に要求したのは、名胡桃事件の首謀者を処罰したうえで、すぐに上洛して弁明することである。

北条方の弁明

 氏直は上洛しても、抑留あるいは国替えの噂があるので、上洛できないと返答した。また、名胡桃城事件は、北条氏が命じたものではなく、すでに名胡桃城は真田氏に返還したので問題ない旨を伝えたのである。

 回答を受けた秀吉は、北条氏が上洛を拒んでいるとして、合戦の準備を進めた。一方の北条氏も受けて立つべく、諸将に迎撃の態勢を整えるよう命じた。

 その後、秀吉は氏直を「悪逆人」と称し、五ヵ条からなる宣戦布告状を全国の主な大名へ送り、北条氏の討伐を命じた。慌てた北条氏は直ちに使者を秀吉のもとに送り弁明を行ったが、受け入れられなかったのである。

受けて立った北条氏

 北条氏は秀吉の上洛命令に従わず、果敢にも戦いを挑んだ。天正17年(1589)12月、北条氏は秀吉との戦いに備えるべく、国衆に陣触れを発し、また一部の国衆に対しては、翌年正月に小田原城に籠城するよう命じた。

 開戦に際して、北条氏は軍議を催したが、作戦をめぐって意見が分かれ、なかなか結論が出なかったという(小田原評定)。小田原評定とは長引くだけで、結論がなかなか出ない会議のたとえになったが、創作じみた話で疑わしい。

小田原城内で、「徹底抗戦か降伏か」の議論が長引いたという小田原評定
小田原城内で、「徹底抗戦か降伏か」の議論が長引いたという小田原評定

 北条氏は小田原城に籠城し、主力の軍勢を箱根山の諸城に配置した。攻撃を指揮したのは、戦巧者の北条氏照だった。また、韮山城、山中城などの国境付近の諸城を防衛ラインとし、房総半島から来援した軍勢に守らせたのである。豊臣勢が北条方の城々を攻撃を行っている間、北条氏は小田原城から攻撃軍を送り込み、打ち破る作戦を立てていた。

 北条氏の軍勢は約10万人だったが、うち正規兵は3万4000人だったといわれている。残りは訓練が不十分な農兵だったといわれ、普通に戦うと敗北は避けられなかったので、籠城戦を採用したという。

 北条氏は支城ネットワークを築いており、その数は100を超えるほどあった。その内、籠城戦に耐えられる城は少なく、一門や有力国衆が城主を務める伊豆国の韮山城、下田城、相模国の玉縄城、津久井城、武蔵国の八王子城、岩付城、江戸城、忍城、松山城、鉢形城、上野国の金山城、松井田城などに限定されていた。

小田原征伐の主な城。赤マーカーは北条方、青は秀吉方。(戦ヒス編集部作成。地図拡大すると各城名が表示)

豊臣方の大勝利

 一方の豊臣勢は、本隊が約12万人、北国勢が約3万人、水軍が約1万人に後詰めの約1万人の部隊を加え、計約21万人だったという。

 天正18年(1590)4月、豊臣秀次(秀吉の養子)を大将とした約7万の軍勢は、松田康長が籠る山中城を攻撃し、あっという間に落とした。その後、北条氏の頼みとなる韮山城、下田城、玉縄城、三崎城、江戸城なども、次々と豊臣勢によって落とされた。

 豊臣勢は本陣を早雲寺に置き、長期戦で小田原城を攻囲した。その一方、上野国で大道寺政繁が守備する松井田城も陥落し、北条氏は窮地に陥った。皆川広照は北条氏を見限り、秀吉に降伏することになった。

 同年6月、北条氏は徳川家康、織田信雄を頼り、秀吉との和睦を模索していた。岡田利世(信雄の家臣)は小田原城に入り、氏直と面談した。しかし、すでに北条氏領国の一部では、家康による支配がはじまっていた。

 同年6月、黒田官兵衛と滝川雄利は、北条氏に対して降伏の勧告を行った。北条氏は降伏するか、徹底抗戦するか意見が分かれたという。この話も小田原評定のたとえに用いられる。しかし、同年7月5日、氏直は ”自らの切腹と引き替えに城兵を助命する” という条件で降伏したのである。

北条氏の末路

 戦後、北条氏政、北条氏照、松田憲秀、大道寺政繁は、責任を取らされて切腹した。氏直は切腹こそ免れたが、正室の督姫(家康の娘)と離縁させられ、高野山に追放された。氏直は、一門の氏房、氏規、氏忠、氏光、氏隆ら家臣200人とともに高野山に向かった。

 天正19年(1591)8月、氏直は秀吉から許され、1万1千石の知行を与えられた。しかし、同年11月、氏直は大坂で亡くなったのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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