池袋のサンシャイン60は、かつての巣鴨プリズンの跡地……なのだが、なぜ〝池袋〟なのに〝巣鴨〟なのだろうか?
- 2024/11/01
最寄り駅が池袋だった巣鴨プリズン
東京で暮らしていると、どこへ行くにも最寄り駅はどこかと考える。施設名に「新宿」とか「渋谷」とあれば、新宿駅や渋谷駅の近くにあると思い込む。そんな習性が身についている。そこから、誤解が生じることがある……「巣鴨プリズン」がそうだった。終戦後に戦争犯罪者を収容した施設というのは知ってたけど、正直、昔はさほど興味はなかった。上京したばかりの80年代の頃は、
「巣鴨プリズンだから、巣鴨駅の近くかな」
そんな程度の認識だった。その跡地にサンシャイン60が建てられたことを知った時には、かなり驚いたことを覚えている。
サンシャイン60は、東洋一高い239.7メートルのビルとして昭和53年(1978)に開業した。私が上京した頃もその記録は破られていなかったはず。
最上階の展望台は雑誌やテレビでよくデートスポットとして紹介され、週末ともなればエレベーター前は長い行列ができていた。当時の東京では最も華やいでいた場所のひとつで、東京スカイツリーやアベノハルカスと同じくらいには注目されていたと思う。
この場所にサンシャイン60を建てた理由が〝刑務所〟〝処刑場〟といった暗いイメージの払拭にあったとするならば、その目的は十分に達成されている。
池袋と巣鴨の境はどこにあるのか!?
池袋駅からの最寄りにありながら、収監施設の名称が「巣鴨プリズン」だったことも、過去の暗いイメージを消し去るには都合が良かったのかもしれない。しかし、何故そんなことになったのか?少し調べてみよう。明治28年(1895)に警視庁監獄巣鴨支所が「東京府北豊島郡巣鴨村大字巣鴨」に設置され、後に巣鴨刑務所と名称変更される。昭和12年(1937)には府中へ移転となり、この時に府中刑務所に改称された。
巣鴨刑務所の跡地には、未決囚を収容する東京拘置所が新たに設置され、政治犯や思想犯を多く収監するようになる。昭和19年(1944)にはゾルゲ事件の主犯リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実の死刑もここで執行された。
終戦後の昭和23年(1948)に東京拘置所は進駐軍に接収され、戦犯収容施設として使われることに。進駐軍は「スガモプリズン」と呼び、日本側もそれに倣って「巣鴨プリズン」「巣鴨刑務所」などと呼ぶようになる。
また、巣鴨村は大正7年(1918)に町制に移行し、巣鴨刑務所の住所は「西巣鴨町大字巣鴨」となっていた。東京拘置所となってから昭和7年(1932)、西巣鴨町は東京市に編入され「東京市豊島区西巣鴨一丁目」となる。
戦後に戦犯収容施設の巣鴨プリズンとなった頃の住所も「西巣鴨一丁目」だった。
昭和27年(1952)4月サンフランシスコ講和条約発効によって日本は主権を回復。巣鴨プリズンも日本に移管され、巣鴨プリズンの名称は巣鴨刑務所に変更された。
昭和33年(1958)5月に収容されていた最後の戦犯18名が釈放され、巣鴨刑務所は一般未決囚の収容施設として使われることになった。しかし、未決囚の収容施設の名称が〝刑務所〟のままでは不味い。ということで、戦前からの名称「東京拘置所」に戻される。
この後、昭和46年(1971)に葛飾区小菅に移転するまで、東京拘置所はずっと池袋駅から徒歩10数分のこの場所に存在していた。70年代の池袋はもう、東京有数の繁華街だったはず。そこに拘置所があったなんて、その事実にもちょっと驚かされてしまう。
東京拘置所に名称が変わる 2 年前の昭和31年(1956)には、町名変更によって所在地は「西巣鴨一丁目」から「池袋東一丁目」に変更されているのだが……住所が〝池袋〟となってからも15年の間、拘置所はずっとこの場所にあったのだ。
ちなみに「池袋」の土地名は、北条氏康の時代から『小田原衆所領役帳』に「武蔵豊嶋郡池袋村」として記され戦国期から存在している。維新後は「巣鴨村大字池袋」となるが、現在のJR池袋駅より西側と北側のごく限られた狭いエリアだった。
池に囲まれた低湿地で田畑は少なく、数軒の家々が点在するだけ。巣鴨村の外れといった感じで、地元民も〝池袋〟の地名を知らない者は多かった。
しかし、明治36年(1903)に日本鉄道池袋駅が設置されると、そんな人々の認識も変わってくる。やがて山手線が全通し、池袋駅は郊外へのターミナル駅として大発展を遂げてゆく。昭和時代に入った頃には「巣鴨」と「池袋」の立場は完全に逆転していたという。
巣鴨プリズンに大勢の戦犯が収容されていた終戦直後の頃、池袋はすでに東京有数のターミナルとして知名度を誇っていた。東京で暮らす人々にとっては、現代よりもずっと重要な場所だったようでもある。
池袋駅の周辺には都内でも最大級の闇市が広がっていた。当時、埼玉県朝霞市には首都圏最大の進駐軍基地キャンプ・ドレイクがあり、そこから最も近い都心のターミナル駅である池袋は、進駐軍兵士が横流しする物資の集積場として発展を遂げた。
東口駅前は空襲で約2万平方メートルの焼け野原が広がっていたのだが、終戦を境に露店で埋尽くされて首都圏最大級の闇市が形成されている。他の場所では入手困難な食糧や生活必需品も、池袋なら手に入れることができる。と、都内各地から大勢の人々が押し寄せるようになっていた。
闇市を中心とする池袋の街は、当時〝ブクロ〟の通称で呼ばれていた。それは「池袋」の略である。つまり、この駅前付近が「巣鴨」ではなく「池袋」と当時の人々が認識していたことは間違いない。
この〝池袋〟の駅前の闇市を抜けてしばらく歩いたところに、巣鴨プリズンはある。昭和初期の地図を見ると、巣鴨刑務所時代の敷地は現在のサンシャイン・シティ敷地の 3 倍にもなる。
駅から巣鴨プリズンの正門までの距離は、現在の池袋駅からサンシャイン60までの距離よりもっと近かった。この間で、当時の人々はいったいどこのあたりに「池袋」と「巣鴨」の境を認識したのか? 当時の人々のそんな微妙な感覚については、いまとなってはもう分からない。
石碑の裏側の目立たない位置に、説明文をもってきた意図は?
サンシャイン60の北隣、聳える巨大ビルの影に隠れるようにして豊島区立東池袋中央公園がある。 昭和39年(1964)、新都市開発センターに東京拘置所跡地が払い下げられて、サンシャイン60の建設計画を含む都市再開発事業がスタートした。その際に、拘置所内の処刑場跡地の保存が閣議決定している。そして、サンシャイン60の完成から 1 年が過ぎた昭和54年(1979)には、処刑場跡地周辺も東池袋中央公園として開園した。
開園の翌年には公園の一角に『永久平和を願って』と記した慰霊碑が建立された。この碑が立つ場所には、かつて絞首刑がおこなわれた処刑台があったという。
「平和に対する罪」により起訴されたA級戦犯28名をはじめ、捕虜虐待などで被告となった大勢のB・C級戦犯が巣鴨プリズンに収容された。収容者の数が2000名を越えていた時期もあったという。
昭和21年(1946)5 月から東京や横浜、アジア各地で極東軍事裁判所が開廷し、昭和23年(1948)11月までに約5300名が裁かれ、死刑や終身刑など重い刑罰を科せられた者も少なくなかった。
巣鴨プリズンでも収監されていたA級戦犯7名の死刑が執行された。また、B・C級戦犯も920名に死刑判決が下されているが、そのうち、ここに収監されていた53名の絞首刑が執行され、1 名が銃殺刑に処されたという記録が残っている。
現在の碑が建立されている場所は、当時、30メートル四方のコンクリートの壁に囲まれていた。刑場の清掃を担当した元囚人の証言によれば、内部は殺風景な庭になっていて、北側の隅には東京拘置所時代からの瓦葺き白木造りの日本風の刑場があり、B・C級戦犯の処刑はそこで執行された。その後、昭和22年頃にアメリカ式のブリキ葺きの屋根をつけた刑場が作られ、A級戦犯の処刑はそこで執行されたという。
しかし、公園内を歩きまわっても、そんな過去の暗い出来事を知る手掛かりは見当たらない。どこにでもありそうな普通の公園だ。昼休み時間だったこともあり、サラリーマンやOLがコンビニ袋を片手にランチを食べる平和な眺めが広がっている。
また、碑文の表側には『永久平和を願って』と書いてあるだけで、これでは何のことだか分からない。現代ではもう、ここに巣鴨プリズンがあったなんてことを知らない者のほうが多い。意味不明のモニュメントが視界に映っても、みんな気にせず素通りしてしまう。
しかし、碑の後ろにまわると、事の経緯が詳しく刻まれた説明文があるのだが。なぜ、誰からも見える場所にこれ設置しないのだろうか?
当時、処刑場跡を残すことに反対する者も多かったことは想像できる。閣議決定には従うが、どういった形で残すのかは現場の判断。できるだけ目立たせず、ぱっと見には何なのかも分からない抽象的なモニュメントにしてしまえ……と、そんな感じを狙って造ったのだろうか。
巣鴨の名称を用いたことに関しては、当時の住所をそのまま使ったもので他意はなさそうなのだが。この石碑の説明文の位置に関しては、いろいろと考えさせられてしまう。まあ、根拠のない勝手な想像、邪推なのかもしれないけれど。
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