まさに大スター!? 地元の誇りとして愛されている相良の殿様・田沼意次

相良城跡に建つ田沼意次の銅像(静岡県牧之原市相良)
相良城跡に建つ田沼意次の銅像(静岡県牧之原市相良)
「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ」

 これは江戸時代に横行した役人の収賄を風刺した川柳で、皆さんもご存知かと思います。そしてこの頃、政治の実権を握っていたのが「賄賂政治」のイメージが強い老中の田沼意次です。

 しかし、最近は彼の政策が再評価されて悪いイメージが払拭されつつあります。また、2025年大河ドラマ「べらぼう」ではハリウッドスター・渡辺謙さんが田沼意次を演じることで、さらに話題となりました。

 そこで今回は田沼意次にスポットを当てますが、老中としてではなく、相良藩主としての田沼意次を紹介をしたいと思います。

田沼氏の歴史と相良藩

 老中として幕政を主導していた田沼意次は、遠江国相良藩(静岡県牧之原市相良)の藩主でもありました。しかし、この相良の地は田沼氏が元々所領していた土地ではありません。

 田沼氏の先祖は、藤原氏の流れを汲む佐野氏から出ていると『寛政重修諸家譜』に書かれています。後に下野国安蘇郡田沼邑(栃木県佐野市田沼町)に住んだことから姓を田沼としたようです。慶長20年(1615)に田沼家当主の吉次は鉄砲の腕前を認められ、そこから田沼家は紀州徳川家に仕えるようになりました。

 享保元年(1716)に徳川吉宗が8代将軍になると、意次の父である意行も江戸へ移り、吉宗の小姓となります。意次もまた、延亨2年(1745)に9代将軍家重の小姓となっています。

 そして宝暦8年(1758)9月3日、幕府の御用取次だった意次は遠江国榛原郡に5000石の加増を受けて1万石の大名となり、同年11月に相良藩主となります。

 その後、明和9年(1772)に側用人兼務で「老中」に就任するのは周知のとおりです。次に視点を変え、相良藩の歴史にフォーカスしてみましょう。

相良藩の歴史

 江戸幕府成立期、後に相良藩となる地域の大半は幕府直轄領でした。当時、徳川家康はこの地へ何度も鷹狩りに来ており、その時の御殿として慶長7年(1602)に相良御殿を築造しています。

 宝永3年(1706)2月、本多忠晴が三河国伊保(愛知県豊田市)から1万5千石の大名として相良にやってきます。これが相良藩の成立です。この後、本多氏による相良藩は忠通、忠如と3代に渡って42年間続きました。延享3年(1746)9月に忠如が奥州泉へ転封すると、後に老中となる板倉勝清が入封します。そして、寛延2年(1749)には本多忠央が板倉勝清に代わって相良藩主となります。

 忠央の母方曽祖父である本多忠利は、初代相良藩主・忠晴の兄にあたります。本多氏は相良に縁があるのですね。しかし、本多忠央は宝暦4年(1754)に起きた美濃郡上一揆の処理に不手際があったとして、幕府の評定で改易となってしまいます。その後、忠央に代わって宝暦8年(1758)に相良藩主に就いたのが田沼意次でした。

 ただし、実際に相良の地を拝領したのは翌年の2月5日になります。意次が江戸で政務を行なっていたため、家老の倉見金太夫ほか用人らが相良に派遣されて陣屋と領地を受け取りました。そして、彼らはそのまま相良に移り住み、意次に代わって相良藩の支配にあたったようです。

 以降、彼らは意次と連携し、相良藩の藩政を執り行っていくのです。

相良藩の藩政内容

 意次が相良藩主として行なった主な藩政内容は、以下の3つです。

  • 殖産興業
  • 相良城の築城
  • 城下町の整備

 それぞれみていきましょう。

殖産興業

 意次が相良領内で最初に行った大きな施策が、殖産興業の申渡(もうしわたし。裁判の判決、決定などの内容を当事者に宣告すること)です。

 ここには、まず養蚕の必要性を説いて、次いで養蚕について具体的な指示が記されています。さらに、

  • 「ただ桑葉を蚕に与えるだけ良い」
  • 「足腰の立たない人でも家にいながらできる」
  • 「真綿が一貫八、九〇〇匁くらい出来れば七、八両で売れるのでとても儲かる」

と紹介して養蚕を奨励しています。

 なお、この申渡の大半は養蚕について書かれていますが、「蠟油採取のための漆木の栽培」と、「種油を取るために毒荏木の栽培」についても最後に一条ずつ書かれています。

 意次が上記のような「殖産興業」を推奨した理由は、米麦の栽培だけでは経済が行き詰ることを理解していたから、と言われますが、実は相良藩の状況が影響していたと思われます。

 申渡の最後には、
「相良藩の村々は近年どんどん困窮している。豊作時に年貢を増徴しているわけでも無いから、残る米は多くあるはずなのに困窮しているということは、普段の心掛けが悪く不埒である」

「相良藩の国柄は悪く、その日暮らしで安易な生活に慣れ、先行きの生活の覚悟が無い」

と記されています。つまり、意次の目には、相良藩の人々はその日暮らしで不作時への備えが無いから貧しい村が多いと映ったのでしょう。

 また、意次は次のようにも記してます。
「養蚕によって出来る真綿の質が良ければあちこちに市が立ち、京や大阪などから商人が買取に来る」

 文字取り、「殖産興業」によって相良藩を経済的に発展させるのが最大の目的だったと思います。その一方で領民たちに教え諭し、これまでの生活を戒めさせる狙いもあったのではないでしょうか。

相良城の築城

 明和4年(1767)に側用人となり、城持ち大名となった意次は、翌年から相良城の築城を開始。のちの安永9年(1780)に城が完成します。

 総面積は20万平方メートルで、三重の堀をめぐらし、本丸・二の丸を中心に本丸三重櫓、本丸御殿、太鼓櫓、南角櫓、大手門、園口門、徳村門などが建てられた壮麗な城です。駿河湾を航行する船からも見ることができ、その姿はまるで竜宮城のようだと称えられたそうです。

 すでに老中となっていた意次は完成後に入城し、10日間滞在します。この時、意次は城の出来栄えを賞賛し、自分は政務多忙のため築城の全てを任せていた家老の井上伊織に直印状を与え、知行と家老職を彼の子孫に安堵しています。しかし、天明6年(1786)に意次が失脚すると、相良城は天明8年(1788)には跡形もなく破却されてしまいます。

 ちなみに、寛政4年(1792)に相良の地を訪れた小林一茶は建物が破壊し尽くされ、荒涼とした中で人足たちが油汗を流しながら堀の石垣を崩して運び出している様子を見て、歌を詠んでいます。

「石運び なげき照りつむ しめし野の 人のあぶらに 光る城かな」
by 小林一茶

城下町の整備

 意次は竜宮城のような城に見合う城下町の整備にも取り掛かりました。

 まず、京都や駿府などの大都市を模して町割を碁盤目状に区画しました。その際に問題となるのは、既存の町屋の立ち退きです。意次は金193両を引越料として与え、立ち退きと区画整理をスムーズに進めていきます。

 次に、新しい城下町に並ぶ町屋には「町屋の屋根が藁葺きなら、板または瓦屋根に換えなさい。お金が無くて難しい場合は62両を給付します」というルールを出します。

 給付金制度も活用され、対象28軒全てが葺き替えられたそうです。これは城下町の景観を美しくするだけでなく、防火対策の目的がありました。

 最後に、城下町へ繋がる交通路を整備します。

 城の堀代わりとされていた狭間川の河口に湊橋を架けて、交通と流通の便を良くしました。また、大井川は東海道の川会所以外での渡河を禁じられていましたが、相良の城下町から榛原・吉田を通って藤枝まで出る海沿いの道(田沼街道)を整備したことで、川会所より下流での渡河を可能にしました。

 他にも、狭間川の河岸を整備して船舶の出入りを自由にし、江戸・大阪間を航行する船が寄港できるようにしました。

 これらによって、相良には全国から商人や職人が集まり、江戸・大阪航路の中継港町としても大きく繁栄するのでした。

相良藩主としての田沼意次の人物像は?

 上記以外にも、天明の大飢饉の時には領民へ50日分の金銭を貸し与え、返却できない者には「下され切り願書」を出せば免除になる、といったような良心的な施策も行なっています。しかし相良藩の領民たちから、藩主意次がどんな人物だと思われていたのか、わかる資料はあまりありません。

 ただ、意次が子孫に残した『意次遺訓』から、彼の人物像が見えてきます。この『意次遺訓』は前文と本文7条、さらに別紙に書かれたもので構成されていますが、本文第3条と別紙に記された内容が印象的なので紹介します。

友人・同僚など、交際している人々とは表裏なきよう心がけよ。目下の人々にも人情を用いる所は同様にすべきこと。
『意次遺訓』本文 第3条より

領内の取り立て、無理に強く申し付けることは慎まねばならぬ。すべて百姓町人に対して無慈悲な扱いをしてはならない。
『意次遺訓』別紙より(一部抜粋)

 いかがでしょうか?悪徳政治家というよりも人徳者の言葉にしか聞こえませんが…。

その後の相良藩

意次失脚後の相良藩

 天明6年(1786)、意次は失脚して相良領が没収されます。この時、相良は上知(幕領になること)となりますが、文政6年(1823)に意次の子である意正が相良藩主として陸奥国下村藩から戻ってきます。そして、意正は相良城の旧二の丸跡地に陣屋を造営。以降、田沼家は廃藩置県まで相良藩1万石の藩主として続いていきます。

現在の相良

 かつて相良城があった場所ですが、本丸跡地には役場・中学校・資料館、二の丸跡地には小学校、三の丸跡地には高校が建っています。徹底的に破却されたとはいえ、現在も石垣や土塁が一部残っており、さらに堀跡は小川や道などとして残っている所もあるため、街中を丁寧に見て回ると城の遺構を確認することができます。

 なお、本丸跡地にある相良中学校の校章は田沼家の家紋である“七曜星”をモチーフとしています。そして、中学校の隣にある牧之原市資料館は田沼意次に関する展示がメインとなっており、彼の功績を詳しく知ることができます。

 さらに、令和元年(2019)には「田沼意次侯生誕300年記念大祭」が行われ、相良がロケ地になった映画「ウォーターボーイズ」に出演した俳優の金子貴俊さんが意次役として大名行列に参加しました。

 他にも <田沼意次=賄賂政治> といった、悪いイメージを敢えてイジって、「ワイロ最中」という和菓子まで販売されています。(現在は菊川市の和菓子屋にて販売中)

 このように現在の相良では、意次は地元の誇りとして愛されているようですね。まさに相良の殿様、田沼意次は大スター!?



※参考:牧之原市資料館等の紹介動画(SBS(静岡放送))


【主な参考文献】
  • 『相良町史 通史編 上巻』(相良町、1993年)
  • 『相良町史 資料編 近世二』(相良町、1992年)
  • 『城下町相良区史』川原崎次郎 編(静岡県榛原郡相良町、1986年)
  • 『島田市史 中巻』(島田市史編集委員会、1968年)
  • 『相良藩主 田沼意次』(牧之原市教育委員会、2013年)
【取材協力】
  • 牧之原市資料館

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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