「田沼意知」は何故、旗本・佐野政言に斬られたのか? たった4年で歴史の表舞台から去った逸材
- 2025/01/31
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田沼意知(たぬま おきとも)は寛延2年(1749)に田沼意次の長男として誕生しました。史料が少なく、長男という説が有力ではありますが、次男だったという説もあります。そして32歳で早くも奏者番という幕政の出世街道に乗ります。
いくら父である田沼意次の全盛時代とはいえ、やはり優れた面を持っていたのでしょう。父も「意知ならば大丈夫」という自信があったものと考えられます。事実、意知は34歳で「若年寄」という老中に次ぐ重職に就任し、父の施策を後押しし始めます。異例中の異例の出世であり、父親あっての出世であることは否定できませんが、彼にはそれだけの器量があったと考えて良いようです。
しかし思わぬ事件によって、36歳という若さでこの世を去ってしまいます。たった4年間で歴史の表舞台から消えていった田沼意知という人物に迫ってみましょう。
いくら父である田沼意次の全盛時代とはいえ、やはり優れた面を持っていたのでしょう。父も「意知ならば大丈夫」という自信があったものと考えられます。事実、意知は34歳で「若年寄」という老中に次ぐ重職に就任し、父の施策を後押しし始めます。異例中の異例の出世であり、父親あっての出世であることは否定できませんが、彼にはそれだけの器量があったと考えて良いようです。
しかし思わぬ事件によって、36歳という若さでこの世を去ってしまいます。たった4年間で歴史の表舞台から消えていった田沼意知という人物に迫ってみましょう。
田沼意知は重要人物だった?
田沼意知については、残念ながら史料が極端に少なく、どういう人物であったのか明確にわかる記録がありません。しかし数少ない史料の中で、当時オランダ商館の商館長であったイサーク・ティチングが著した『日本風俗図誌』の中に、意知についての記述があり、次のように記されています。「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」
田沼意知が生きていれば同時代に開国がなされたであろう、という物凄い意見です。イサーク・ティチングが何故このように書き残したのか、根拠は全く不明ですが、もし本当だとしたら大変なことだと言えます。
というのも、江戸幕府の鎖国政策は初代の家康が定めたものであり、絶対不可侵の内容であったからです。その絶対不可侵の決まり事を田沼意知は変えようとしていたと言うのですから。もし意知が生きていたら、ペリー来航を待つまでもなく、日本は開国していたかもしれないというのです。
幕末の動乱を知っている我々からしたら、そんな簡単に開国などあり得ない、と誰しもが考えそうです。しかし、幕末は〝開国か鎖国か〟といった問題のほか、〝天皇親政か徳川幕府存続か〟という問題もあったゆえに、あれだけ揉めたということを考えると、まだ幕府が衰退する前に徳川幕府が自ら進んで開国するというのは、案外にすんなりと進んだかもしれないとも思えます。
要するに、田沼意知は超重要人物であったという可能性もあるのではないでしょうか。
江戸城内で突如、斬りつけられ…
天明4年(1784)3月24日、田沼意知は江戸城内にて、500石取りの旗本・佐野政言(まさこと)に突然斬りつけられて深手を負い、4月2日に絶命します。
佐野は意知に切りかかる時に「覚えがあろう!」と3度叫んだと言われています。なぜ佐野は田沼意知を斬殺したのでしょうか?巷では色々噂が流れましたが、実は裏が取れたものはなく、理由を言わずに佐野は切腹して果ててしまったため、動機は未だに不明なのです。
有力な説として、以下のようなものがあります。
- 田沼意知に賄賂を渡して出世を頼んだが、意知が実施してくれなかったから
- 佐野が自分の家の系図を田沼家に課したが返してくれなかったから
しかし、上記のような巷間に流れている内容は、理由としては浅すぎると思われます。浅野内匠頭の刃傷事件(1701年)を見ても分かるように、江戸城内で刃傷事件を起こしたら、〝打ち首〟か〝切腹〟です。佐野も当然これを知ったうえで、命を捨てる覚悟で事件を起こしたのでしょうから、相当に重要な理由があってしかるべきはずなのです。
事実、この事件後に佐野家は改易となって、絶えてしまいます。現在よりも家という概念が遥かに重要であった江戸時代の武家社会では最も避けるべき結果ですが、佐野はこうした結末になることも分かっていたと考えられるのです。
では真の動機はなんだったのか? 今となっては推測でしかありませんが、色々な状況から考えてみたいと思います。
旗本・佐野政言の人物像
佐野政言の家柄は代々、番士という軍事部門担当の役職でした。このため、若年寄という重職についていた田沼意知と仕事上で何等かの関わりがあったという可能性はほとんどありません。佐野政言が歴史上に表われるのは、この事件を起こしたからであり、その他には全く史料らしきものも残されておらず、人柄や人物像も全くといって良いほど分からないのです。ちなみに浅野内匠頭の人物像も確たる史料は無く、一部で語られているような短気でヒステリックな性格であったとか、癇癪持ちであったという説も確証はありません。佐野政言よりも有名な浅野内匠頭でさえ、こうなのですから、500石取の旗本の人柄や人物像は残念ながら不明というしかないのです。
そこで、あくまでも佐野政言が正常な人物と仮定したうえで、彼が事件を起こした動機を推測してみようと思います。
考えられる刀傷事件の真相とは?
推測1 田沼政治の評判の悪さが原因
当時、天災とそれに続く飢饉、物価高騰などで田沼意次の評判は一般庶民の間では最悪でした。江戸の町には離農した農民が大量に流入し、無宿人として治安を悪くしており、江戸の町も元禄時代に比べて暮らしにくく、治安の悪い町となっていたのです。こういった状況変化が起きた場合、一般庶民は「為政者が悪いから」という判断をします。特に儒学が普及していた江戸時代には、天災などは「為政者の不徳のせいだ」とする風潮も強く、時の為政者である田沼意次が全ての元凶とみなされていたのです。
そういった世間一般の不評を佐野がそのまま信じ、「このままでは徳川幕府が危険だ」と考えて元凶を絶つために刃傷に及んだという推測は成り立ちます。少し考えてみれば「ならば意知ではなく、意次を狙うべきでは?」とも思われます。しかし、意次を斬っても意知がいる限り、田沼の政治は終わらないとなれば、お家断絶に持ち込める意知を斬った方が田沼家根絶につながる、と考えるのは自然ではないでしょうか。
見方を変えれば、佐野は「幕府のために一身を投げうってご奉公をした」という訳です。この説ならわざわざ江戸城内で刃傷に及んだ理由も説明できそうです。何しろ幕府に対するご奉公なのですから。
推測2 田沼意知の開国論が原因
当時の長崎のオランダ商館長であるイサーク・ティチングが著した、日本に関する著書『日本風俗図誌』は、田沼時代の日本の様子を知る貴重な史料となっています。この史料の中で、田沼意知と開国に関することが記されていたことは前述しましたが、もしその内容が正しいのならば、田沼意知は早くも日本の将来のために開国を考えていたことになるでしょう。開国について、現在の感覚では「なんと先見の明があったことか」と思えますが、当時の武士の感覚では、神君家康公が定めた鎖国の方針を守り抜くことこそが当然と考えたことでしょう。佐野には、開国を考える田沼意知のことが「代々受け継がれてきた幕府の方針を覆そうとする不忠者」に映ったことと思われます。であれば、やはり「幕府のためにわが身を投げうってご奉公をする」という意味で意知を斬ったと推測できるのです。
佐野政言の人物像がはっきりと分からない以上、いずれの説も推測に過ぎません。ただ、自分自身の命・佐野家滅亡も覚悟の上だったことを考えると、当時の武士の感覚からして「幕府に対するご奉公」というのが妥当だと思われるのです。
残念ながら、今となっては真相を知ることは不可能です。しかし分からないからこそ、僅かに残されたイサーク・ティチングの記述が意味深です。
田沼意知の死後
意知の死後、世間は打ち続く一揆や天変地異や飢饉で疲弊。意知が殺されたことをきっかけに一挙に田沼政治に対する不満が爆発しました。意知を斬った佐野政言は佐野大明神と祭り上げられ、意知の葬儀の列には石が投げられたそうです。盛り上がる世論の反田沼政治の風潮に負けて、田沼意次は遂に老中を追われ、田沼時代は終焉を迎えることになります。つまり、意知の死は、そのまま田沼意次の政治的失脚につながっていったのです。
歴史にタラレバは禁物ですが、もし意知が生きていたら、とつい考えてしまいます。もし本当に意知が開国論者で江戸中期に江戸幕府が自ら開国していたら、歴史の大分岐点となっていたことでしょう。少なくとも、私たちが知る幕末の動乱はもっと違った物になっていたことは確実です。非常に興味深い仮定の1つで、つい検証してみたくなってしまいます。
結局のところ、佐野が田沼意知を斬った動機は不明ですが、佐野にとって自分の生命に代えても意知を斬り殺さねばならない何かがあったのでしょう。もし、それがイサーク・ティチングの言うように、意知の開国論だったとするならば、この事件は既に幕末の動乱と同じ様相を呈しています。
書き残された内容から考えるに、イサーク・ティチングは意知のことを、日本の将来を担う大物ととらえていたのでしょう。
【主な参考文献】
- 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版、1994年)
- 稲垣史生『とっておき江戸おもしろ史談 : 将軍・大名・武士・町人…こぼれ話』(KKベストセラーズ、1993年)
- イザーク・ティチング著、沼田次郎訳『ティチング日本風俗図誌』(雄松堂書店、1980年)
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