「三鷹跨線人道橋」鉄道ファンや文学ファンの聖地、昭和史の舞台、住民たちが仰ぎ見てきた故郷の眺めが、まもなく消えてなくなる……
- 2024/11/20
電車庫通りから「三鷹跨線人道橋」へ
三鷹駅南口を出て右手の方向へ、線路に沿ってある通称〝電車庫通り〟を歩く。フェンスの向こう側には、中央線の赤い電車や総武線の黄色い電車にくわえて、様々なカラーリングの列車や独特のフォルムをした長距離特急の気動車など、都内では見かけない車両が多く行き交っている。電車庫通りの先には、首都圏有数の車両基地の三鷹車両センターがある。約100メートルの車両基地構内には無数の線路が敷かれ、関東各地を走る列車が修理やメンテナンスのために入線してくる。
電車庫通りを歩いているとやがて、広大な車両基地を横断する鉄橋が見えてくる。駅の南北を結ぶ跨線橋……いや、いまは〝かつての跨線橋〟と言うのが正しいのか?
昭和4年(1929)に旧鉄道省が設置したもので、正式名称は「三鷹跨線人道橋」という。
昔から地元の人々には「陸橋」と呼ばれて親しまれてきたのだが。老朽化により撤去が決定し、いまは使用できなくなっている。すでに工事も始まっており、橋の南側は階段の一部を残して撤去されていた。
〝撮り鉄の聖地〟として崇められた場所
工事現場のフェンスで囲まれた跨線橋を線路沿いから眺める。最近はあまり見かけなくなった古い構造のトラス橋は、なんだか妙な存在感があふれている。 100年近くずっと変わらない眺めだ。すっかり地元のランドマークとして定着していたという。田舎の人々が故郷の山を愛でるように、界隈に住む人々は跨線橋を故郷の風景と認識していた。
跨線橋には「撮り鉄の聖地」なる別名もある。車両基地に入ってくる列車を撮るには最適の場所で、週末には望遠レンズ付きのカメラを持った人々が橋の上にずらりと並ぶ、そんな光景がよく目にされたものだ。
跨線橋の上に立てば、三鷹車両センターから三鷹駅まで一望のもとに見渡せた。たしかに列車の撮影にはもってこい。聖地と崇められていたのもよく理解る。
また、三鷹駅とくれば、昭和史に興味ある人だと「三鷹事件」というワードがすぐに思い浮かぶ。
昭和24年(1949)7月15日、国鉄三鷹電車区(現・三鷹車両センター)から7両編成の列車が突如動き出して暴走した。列車はそのまま三鷹駅のホームに突入して脱線転覆。車両が線路脇に飛び出して商店を破壊し、死者6名・負傷者20名を数える大惨事を引き起こしている。
捜査当局は共産革命を企む過激派のテロと断定、共産党と関係の深い国鉄職員11名を逮捕した。その後、10名は証拠不十分などで無罪に。残った1人の元国鉄職員・竹内景助の単独犯行によるものとして、昭和30年(1955)には死刑が確定したのだが。しかし、死刑は執行されず、無罪を主張しつづけた竹内も昭和42年(1967)に東京拘置所内で病死している。
物的証拠は乏しく、容疑者の自白のもと作成された調書には、ツジツマのあわない所も多々あったという。無人の電車をどうやって暴走させたかについても、完全に解き明かされてはいない。それでも判決は下されて、事件は一件落着ということになった。
関係者は納得していないだろう。また、いまだ謎だらけのこの事件には、関係のない大勢の人々も興味をそそられる。日本の共産化を防ぐために連合軍総司令部が仕組んだ陰謀だったとか様々な説が唱えられ、よく雑誌のネタになっていた。
この他にも終戦直後の連合国軍占領期には下山事件や松川事件と、当時の国鉄にまつわる謎の事件が起きている。三鷹事件をくわえて「国鉄三大ミステリー」なんて言葉も、昭和の時代にはよく聞かれた。
そういえば、昭和末期から平成初期の頃には、鉄道を舞台にした推理小説が大流行していた。書店には時刻表のトリックを使った鉄道ミステリーが、ずらりと並んでいるコーナーとかもよく見かけたものだ。当時、鉄道ミステリーを読み耽っていた人々にとっても、この跨線橋からの眺めは感動モノだろう。なにしろ、国鉄三大ミステリー事件の現場が一望のもとに見渡せるのだから。
太宰が愛した「ちょっといい場所」とは?
撤去工事が進む南側工事現場だが、跨線橋に通じる階段が一部残されたままになっている。階段を数えてみると11段、高さ2〜3メートルといったところ。この部分をモニュメントとして現地保存する方針だという。 この階段は、作家の太宰治がお気に入りだった場所だった。
太宰は昭和14年(1939)から三鷹市下連雀に住むようになり、三鷹駅近辺に仕事場を借りて『斜陽』や『人間失格』などの代表作を執筆している。
仕事場から電車庫通りに沿って歩き、この階段を登って跨線橋に上がる。それが毎日お決まりの散歩コース、橋の上から武蔵野の夕景を眺めるのが好きだったという。仕事場に編集者や友人が訪ねて来れば、
よくそう言って、跨線橋まで案内したという話も残っている。
「毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。」
昭和16年(1941)に発表した『東京八景』から抜粋した一節だが、これは跨線橋の上からの眺めを描写したものだといわれる。
保存が決まった跨線橋南側の階段は、太宰が自分の写真を撮らせる時に、好んで背景に使った場所でもある。
三鷹界隈でよく盃を酌み交わしていた友人の写真家・田村茂が、太宰の生前に出版された全集用に27枚の写真を撮った。いずれも太宰の日常を撮影したものだが、跨線橋で撮影した写真は仕事場である料亭「千草」と同数の5枚で最も多い。
本人の一番のお気に入りは、和服にインバネスコートを羽織って跨線橋の階段を降るところを撮影した一枚だという。キメ顔をしている太宰の脇で、階段に座り込み佇む老婆の姿も写っていた。その対比が面白く、味わい深い印象がある。
撤去工事が始まる以前には、階段の付近に設置してあった案内板に、この写真が貼り付けられていたのだけど。いまはどこかに撤去されたようで見あたらない。工事が終わって石段が一般公開された時には、また付近に再設置されるだろう。たぶん。
東京の跨線橋はすべて消滅する?
三鷹駅北口に移動し、今度は線路の北側に沿って歩いてみる。跨線橋の階段もフェンスで覆われ通行禁止となっていたが、こちらはまだ撤去工事に着手していない。階段は完全な形で残っていた。 階段から通じる跨線橋も昔のまま。線路沿いの道路を跨いで車輌センター構内に向かって伸びている。近くから見上げると圧巻の眺め。だが、実際の高さはたったの 5 メートル、ビルの 3 階程度でしかない。それでも強烈な存在感、個性の強い人と相対した時のような圧を感じる。今の時代では、かなり個性的な意匠なだけに……そう思ってしまうのだろうか。
階段のほうはフェンスで覆われているが、その隙間から支柱や階段を間近に見ることができる。リベットで繋ぎあわせた鉄材、小石が多く混ざる粗雑なコンクリートなど、どれも今時の建造物には見かけない。無骨で荒々しい雰囲気があふれている。
ちなみに使用されている鉄材は古いレールを再利用したもので、日本の鉄道創成期にイギリスやドイツから輸入した明治時代のレールも多いという。跨線橋がまだ通行できた頃には、鉄材に刻印された外国語の刻印を探して歩く鉄道マニアもよく見かけられたとか。
貴重な近代文化遺産だと思う。JRもそう考えて三鷹市に譲渡を提案したのだが。安全確保に必要な改修工事をおこなえば多額の費用がかり、外観の変貌は避けられず文化的価値も喪失してしまう。
このため三鷹市は跨線橋の保有を断念、万策尽きたJRは令和3年(2021)に撤去の方針を決定した。令和5年(2023)12月に跨線橋を閉鎖して撤去工事が開始され、2 年後の完了を予定しているという。
住人たちが毎日仰ぎ見てきた〝故郷〟のランドマーク、撮り鉄たちが崇めた聖地、太宰が愛した夕景……来年には、みんな完全に消滅しているはずだ。
この跨線橋から眺める東京の夕景はまた、ドラマのロケにもよく使われたという。考えてみれば、70〜80年代頃のテレビドラマや映画には、ここに限らず都内各所にある跨線橋がよく登場していた。
密集する建物に視界を遮られる都会で、跨線橋は街並みを見渡すことができる貴重なビューポイント。ドラマの舞台には使い勝手がいい場所ではある。
しかし、最近のドラマでは跨線橋で撮られたシーンを見かけなくなった。近年の首都圏では交通渋滞解消や駅前開発の目的で鉄道の高架化がさかんにおこなわれ、そのぶん跨線橋はかなり数を減らしている。たぶん、ロケに使える橋がなくなってきているのだろう。
三鷹だけの話ではない。そのうち、東京からすべての跨線橋が消え去ってしまうかも。
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