「下北沢駅前食品市場」闇市の名残を残す路地が、またひとつ消えた

下北沢駅前の食品市場跡地。2023年現在、駅前広場として整備工事中
下北沢駅前の食品市場跡地。2023年現在、駅前広場として整備工事中

闇市の残香が漂う場所

 空襲で焼け野原と化した東京の各所に、粗末なバラック小屋の店々が軒をつらね、迷路のように路地が入り組む街ができあがった。極端な物資不足と統制経済の時代だったが、そこに行けばどんな物でも手に入る。米軍からの横流しなど非合法な闇取引で入手した商品が売られていたことから、いつしか、それを〝闇市〟と呼ぶようになった。

 現代の東京にある繁華街や商店街も、その発祥を辿れば闇市に行き着くものは多い。80年代頃にはまだ、闇市の残香が漂う場所をよく目にしたものだが。

 つい最近まで下北沢にあった「駅前食品市場」も、そうだった。

 小田急線がまだ地上を走っていた頃、下北沢駅は跨線橋の上に築かれた橋上駅だった。北口の階段を降りると、すぐ右手に駅前食品市場があった。密集する建物の間に通された通路は細く、迷路のように入り組んでいる。トタン屋根に覆われて昼間も薄暗く、怪しい雰囲気が充満していた。知らない人は入るのを躊躇してしまう。

 しかし、いまは小田急線が地下に潜り、地上には真新しい駅舎がドンと鎮座している。北口や南口はなく「中央口」ひとつになっている。

地上にある真新しい下北沢駅の駅舎
地上にある真新しい下北沢駅の駅舎
中央口を出て真っ直ぐ伸びる道
中央口を出て真っ直ぐ伸びる道

 中央口を出て真っ直ぐ伸びる道には、かつて線路が通っていた。道の左手にフェンスで囲まれた整備工事中の駅前広場がある……そう、ここが駅前食品市場のあった場所。その痕跡はすべて消滅していた。

整備工事中の駅前広場
整備工事中の駅前広場
駅前広場工事の範囲
駅前広場工事の範囲
駅前広場の完成イメージ図
駅前広場の完成イメージ図

21世紀になっても闇市の風情は健在だった

 戦前の下北沢は駅前から少し離れると田畑が広がっていた。終戦直後、近隣の農民が駅前に屋台を出して作物を売るようになり、

「下北沢へ行けば食料が手に入る」

 と、しだいに人々が集まりはじめる。すると新しい店も次々と建ち、いつの間にか闇市ができあがった。

 そして、終戦から数年が過ぎ食料事情が落ち着いてくると、他所では闇市が次々に閉鎖されるようになる。が、ここはあいかわらず活況を呈していた。この頃は米軍から横流しされたタバコや酒、衣類などの贅沢品の販売に業種替えする店が増えて、余裕が生まれてきた人々の購買欲を刺激していた。

 駅前食品市場の名物店のひとつだったジーンズショップ「アメリカ屋」は、進駐軍払い下げの衣類を売っていたことから命名されたものだとか。70年代にアメカジがブームになると市場内に同類の輸入古着店が増え、トレンドリーダーたちから密かな注目を集める場所になっていたという。

 90年代の下北沢は〝古着の街〟として知られるようになるが、そのルーツはここにあったのかも?

 1975年に「下北沢ロフト」がオープンして以来、街には次々にライブハウスができて、下北沢を拠点にするミュージシャンが増えていた。さらに1981年には「ザ・スズナリ」、その翌年には「本多劇場」がオープンして、下北沢は〝演劇の街〟としても知られるようになってゆく。劇団の関係者や役者たちが多く住むようになった。

 やがて駅前食品市場に闇市時代から存在していた数軒の飲屋には、売れないミュージシャンや役者たちが屯するようになる。

 夜が更けてくると、薄暗い路地裏には怪しい空気が充満していた。横丁や路地裏を徘徊する〝街歩き〟や〝せんべろ〟がブームになるずっと以前のこと。知らない人には、怖くて近寄りがたい場所だったのかもしれない。

 もっともこの頃は下北沢の街全体に、少し怪しくて暗い感じがある。駅前にはピンサロが数軒建っていたし、路地裏にはラブホもあった。昼間から職業不詳の輩がまるで近所を散歩するように、駅前をジャージやサンダルでウロつく姿もよく見かけた。けど、それがまったく違和感のない街だった。

 そういった雰囲気に惹き寄せられて、類友な人々が集まってくる。80年代の中頃にはコミックマーケットが主催する同人誌の販売ショップができて、秋葉原や中野よりも早い時期から〝サブカルの聖地〟なんて呼ばれたりもした。

 90年代になると、下北沢の商店街には古着屋を中心に若者向きの雑貨店が目立ちはじめる。バブル期に上昇した家賃に耐えきれず、新宿や渋谷から移転してきた店舗も多かったという。不景気の時代に入って古着ブームが起きた頃でもあり、下北沢はその中心として雑誌にもよく取り上げられるようになる。

 サブカルの聖地から古着の街、若者の街へ。そして、住みたい街の上位には吉祥寺や中目黒とかと並んで、下北沢は上位の常連に。もはや、怪しい人々が集う街ではなく、若者たちの憧れる街になっていた。

 だがかつての下北沢が醸していた怪しさの根源のような場所、トタン屋根の木造建築が軒をつらねる駅前食品市場だけは2000年代もまだ健在だった。

 薄暗い路地に乾物屋や製菓店、漢方薬店、衣料品店などがひしめき、店先には商品が雑然とならぶ。終戦から半世紀以上が過ぎても、闇市の風情を醸すゴチャついた眺めは変わらない。街歩きブームの影響だろうか人通りは以前よりも増えて……怪しい雰囲気が少し薄れてきた感はあったけど。

ここまで生き延びてきたのが奇跡だったのか!?

 じつは駅前食品市場は、都下にあった他所の闇市と同様に終戦後すぐに消滅するはずだった。1946年に東京都は世田谷区の奥地と渋谷を結ぶ補助幹線道路54号線の建設を計画している。

 これが実現すれば下北沢の中心部は最大道幅26メートルの道路で分断され、駅前食品市場も道路用地として撤去される予定だったが。しかし、道路建設の話が具体的になる都度に地元では反対が起こって延期される。その繰り返しで長い年月が過ぎる。

 近年も大規模開発に慎重論を唱える保坂展人氏が、2011年から三期も区長を務めてきたことで計画は凍結されつづけていた。彼は2010年5月19日のTwitterで「下北沢再開発は石原都政と小泉改革の醜悪なコミニュティ破壊だと思います。」とも、語っていたのだけど。

 しかし、その間にも小田急線の地下化計画のほうは進められてゆく。駅前の〝開かずの踏切〟は住人には不評だったし、消防車が立ち入れない駅周辺の細い街路の整備は急務。これには誰も文句が言えない。

 鉄道の地下化工事は幹線道路建設とセットになった巨大プロジェクトなだけに、こちらが動けば、道路建設や駅前再開発計画も動かないわけにはいかなくなる。そして2003年に小田急線の地下化がついに決定し、凍結されつづけていた道路建設と駅前開発計画も〝解凍〟の時期を迎える。

 考えてみれば下北沢の街は昔から、密集する商店街のなかに不思議な空地があり、他にもいびつな構造が随所に見てとれた。すべては幹線道路建設を前提に街ができている。それはもはや運命。いつまでもそれを避けることはできない。

 小田急線の地下化工事が完了すると、つづいて駅前の再開発工事も始まった。

 これで駅前食品市場の命運は尽きる。さらに2013年には老朽化した屋根が崩落する事故が起き、それがトドメとなり市場の解体工事が始まった。

 2016年頃に駅前食品市場の〝跡地〟を見た時はまだ、三分の一程度の店は立ち退きせずに営業をつづけていた。

2016年当時、駅前食品市場の〝跡地〟にまだ残っていたトタン屋根の木造建築
2016年当時、駅前食品市場の〝跡地〟にまだ残っていたトタン屋根の木造建築
中に入ると、まだ営業を続けていた店も…
中に入ると、まだ営業を続けていた店も…

 工事現場のフェンスに囲まれる眺めは、なんだか、滑走路のど真ん中に居座る成田空港反対派の団結小屋のようにも見えた。一部だけ残っていた路地は、陽の光が差し込んで以前よりもかなり明るい。かつての薄暗く怪しい雰囲気は微塵もなかった。

 この時に、生き残っていた店々も近く立ち退きするという話も聞いていた。店主の高齢化とかもあり、このまま存続しつづけるのは無理だという。

消滅した下北沢駅前食品市場

 そして、現在。久しぶりに下北沢駅で降りてみると、駅前食品市場はもうそこにはなかった。道を挟んで対峙していたピーコックストアの建物が健在していなければ、どこの場所にあったのかさえ分からなくなるほどに、完全消滅している。

 終戦直後の闇市の姿をほぼ当時のままに残す、貴重な歴史遺産だと思うのだが。路地の散策が人気になっても、路地の消滅に歯止めはかからない。

 そうかと思えば、下北沢駅付近の京王井の頭線高架下を使って「ミカン下北」っていう新商業施設が昨年開業している。

 薄暗くごちゃごちゃした路地裏をイメージして作られたものだ。こういった施設も最近は各地に増えて人気を呼んでいるようなのだが。だったら……ホンモノのほうを残しておけばよかったんじゃないの?

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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