秀吉の御伽衆筆頭「曽呂利新左衛門」とは? 愉快痛快な頓智をご紹介

『曽呂利新左衛門』(1911年)に描かれた、秀吉と曽呂利新左衛門ら御伽衆(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『曽呂利新左衛門』(1911年)に描かれた、秀吉と曽呂利新左衛門ら御伽衆(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 皆さんは天下人・豊臣秀吉が擁した800人の御伽衆のことをご存じですか?足軽出身の秀吉は無学無教養な為、全国の知恵者を集め、夜毎様々な話を語らせました。その頂点に君臨した謎多き存在こそ太閤の懐刀・曽呂利新左衛門(そろり しんざえもん)。

 今回は秀吉と曽呂利の秘められた関係性や、彼が主君に披露した、痛快な頓智の数々をご紹介したいと思います。

実は町人出身!800人の御伽衆の筆頭

 曽呂利新左衛門の名前が初めて出てくるのは天正15年(1587)、京の公家・西洞院時慶が綴った日記『時慶記』内。豊臣秀吉の甥・豊臣秀次邸に上がった時慶は曽呂利に引き合わされ、宴の余興を楽しみました。

 その日の出し物は外国人のものまねと笑い話。曽呂利は秀次のお気に入りで、彼が催す茶会には必ず出席していたと書かれています。

 『堺鑑』(1684年)や『和泉名所図絵』(1796年)では、さらに事細かく掘り下げられています。

 曽呂利の本名は杉本甚右衛門といい、商人や職人が集まる堺の町で鞘師を営んでいました。さらには鞘作りの名人で、ソロリ、ソロリと鞘が刀を呑む様子から「曽呂利」の異名が広まっていきました。

 曽呂利は大変弁が立ち機転が利く上、香道・茶道・書道・和歌を修め、芸事全般に造詣が深い人物でした。茶道の師匠は武野紹鴎、千利休は兄弟弟子に当たります。

 やがて天守閣にも噂が届き、曽呂利は秀吉に召し抱えられます。以降は御伽衆筆頭として寵愛を受け、ことあるごとに主君に知恵を授けました。秀吉は曽呂利を「新左」の愛称で呼び、近くに寄ることを許します。二人の珍妙なやりとりは『太閤と曽呂利』と銘打たれ、古典落語の十八番となりました。

立川文庫の『太閤と曽呂利』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
立川文庫の『太閤と曽呂利』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 後世の創作ではないかと疑われる理由は、曽呂利に言及した文献の成立がどれも江戸時代以降だから。長栄山妙法寺には生没年を刻んだ墓があるものの、真偽は判然としません。北野武監督の映画『首』では忍者上がりの芸人に設定され、色物のイメージが付き纏います。

 モデルになった人物は確実にいたのでしょうが、盛られまくった逸話を見聞きしていると、確かに眉唾に感じてしまいますね。

曽呂利新左衛門と安楽庵策伝は同一人物?噂を検証

 曽呂利新左衛門の正体として最も有力視されているのが落語の祖・安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)。こちらは美濃国出身の僧で、戦国時代の歴史書に名前が記された人物です。

策伝
策伝

 若い頃は説教師として諸国を回り、庶民向けに翻案した説法を聞かせていました。元和9年(1623)の『醒睡笑』は、策伝が市井に広まる笑い話を纏めた本。題名は「微睡みが醒めるほど笑える本」の略。収録作には今日まで語り継がれる落語の原型も多く、粒ぞろいの面白さは古びてません。

 御伽衆の起源は戦国時代。怪我や老いが原因で第一線を退いた武将が、自陣の士気を上げる為に武勇伝を語ったのが始まり。為政者が御伽衆に求める役割は時代が下ると共に変化し、安土桃山時代の諸大名には耳学問の師や芸人が喜ばれました。

 秀吉の御伽衆は延べ800人。彼等の出自は様々で、策伝のような学僧の他にも医者・学者・職人、亡き信長の子弟に至るまで集められました。千利休の後継者・古田織部こと古田重然も御伽衆の1人で策伝と親しい間柄。主君の家来や戦国大名を取り込んだ背景には、マウンティングの意味合いもあったのでしょうか。

 曽呂利と策伝の共通点は秀吉お抱えの御伽衆に属し、後世の噺家に落語の祖と仰がれた経歴。双方とも落とし噺の達人で、必ず話にオチを付ける芸風も似ています。

 策伝の没年が寛永19年(1642年)、曽呂利の没年も同じ。活動時期が被っているのに注目してください。明治期に活躍した落語家・二世曽呂利新左衛門も当然この噂は知っており、「二世」に「偽」を引っ掛けた地口が粋だと評判でした。

褒美は米粒?秀吉に泡を吹かせた累乗の陥穽

 曽呂利と秀吉に関する逸話は枚挙に暇がありません。ここではその代表的なものをご紹介します。

 若き日、「猿」とあだ名されていた秀吉。天下統一を果たした後もコンプレックスは消えず、猿に似た容姿を嘆いていると、曽呂利がしたり顔で説きました。

曽呂利:「違います太閤様、貴殿が猿に似ているのではありません。猿が貴殿を慕って似せたのです」

秀吉:「ならば仕方ない」

 秀吉は大笑い。気鬱も吹き飛んでしまいました。

 そして後日…

秀吉:「褒美をとらせる。好きなものを述べよ」

 そう言われた曽呂利は米1粒を求めました。秀吉が欲のなさに呆れていると、続けて次のように言います。

曽呂利:「2日目は2粒、3日目は4粒、4日目は8粒。このさき100日間、前日の倍の米をください」

秀吉:「謙虚な奴め」

 秀吉は苦笑いで請け合うも、数日後に青ざめました。

 曽呂利が使ったのは累乗のトリック。約束が履行された場合、最終日に彼が得る米はなんと483京個以上!一生かかっても食べきれません。褒美は別の物に変更されました。

 数学の概念が未発達だった安土桃山時代に、算術の専門家でも何でもない一介の鞘師が、累乗の性質を独学で理解した事実は驚嘆に値します。

 しばらくのち、またもや「望みを叶えてやる」と持ちかけてきた秀吉。そこでまた不思議なことを願う曽呂利。

曽呂利:「好きな時に耳の匂いを嗅がせてください」

 怪しまれながらも許しを得た曽呂利は、もったいぶって主君の耳に近付きました。

 秀吉の耳に顔を寄せると、傍目には耳打ちしているように見えます。それを告げ口と勘違いした家臣たちは、「滅多なことを吹き込まれちゃかなわん」と焦り、曽呂利に財宝を貢ぎました。実にあっぱれな策士ぶりです。

秀吉の耳の匂いをかぐ曽呂利(『太閤之腰巾着曽呂利新左衛門』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
秀吉の耳の匂いをかぐ曽呂利(『太閤之腰巾着曽呂利新左衛門』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 曽呂利新左衛門の頓智話は山形県にも伝わっています。その話における秀吉は病で衰弱しており、大事にしていた盆栽の松が枯れてしまったことを、自分の運命と重ねて嘆いていました。すると曽呂利が現れ、「御秘蔵の常盤の松は枯れにけり 千代の齢を君に譲りて」と詠みます。「そうか、あの松が身代わりになってくれたのか」……病は気からの言葉通り秀吉はみるみる回復し、彼に深く感謝したと結ばれました。

おわりに

 以上、謎の御伽衆・曽呂利新左衛門の紹介でした。

 コラムでは安楽庵策伝説を推しましたが、決定打となる証拠は出ていません。個人的には室町時代の能楽師・犬王に比肩する胡散臭い……もとい魅力的な人物で、とても興味をそそられます。数学の概念がなかった時代に累乗の陥穽を理解し、天下人を欺いた聡明さには脱帽しました。

 はたして彼の正体が明らかになる日は来るのでしょうか?信じて待ちたいと思います。


【主な参考文献】
  • 野花散人『太閤と會呂利』(KADOKAWA、2003年)
  • 小和田哲男『豊臣秀吉』(中央公論新社、1985年)
  • 安藤英男『曽呂利新左衛門』(千人社、1981年)

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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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