〝北の玄関口〟〝終着駅〟 昭和時代に誰もが抱いた上野駅のイメージもいまは風前の灯か?

かつては寝台列車がずらっと並んだ上野駅ホーム

 上野駅の山手線ホームから中央乗換通路に降りる。頭をぶつけそうなほどに低い通路の天井は、昔から上野駅名物のひとつだ。

 高架式ホームが増設されて地上ホームとの多層構造となり、隙間の狭いスペースに中二階の乗換通路が設置された。増改築を繰り返して不可思議な形状になった温泉旅館のような……まあ、そんなところにも、この駅の長い歴史がうかがえる。

 大半の人々は通路からつづく階段で 1 階に降り、右手にある中央改札口に向かう。人流の途絶えている左手の方向に目をやれば、広々とした空間がつづく。照明が薄暗い。それもあって目立たず、気がつかないで通り過ぎてしまいそうになるのだが。

 そこには、かつて上野駅が〝北の玄関口〟と呼ばれた頃の残香があふれている。

上野発の夜行列車は10年前に消滅

 改札口へ向かう人流とは逆の方向、左側の薄暗い空間へ歩を進める。広場を通り過ぎると、線路の終端に車止めを設置したホームがずらりとならんでいる。

 頭端式、または、櫛形と呼ばれるホームの形状は終発着駅を象徴するもののひとつ。パリ北駅とかミュンヘン中央駅など、ヨーロッパのターミナル型でよく見かける構造だ。

中央改札口近く、駅構内広場にある「ブラボー 上野中央口店」店内から、地上の櫛形ホーム方面を撮影
中央改札口近く、駅構内広場にある「ブラボー 上野中央口店」店内から、地上の櫛形ホーム方面を撮影
15番ホーム、線路終端部付近にある石川啄木の歌碑
15番ホーム、線路終端部付近にある石川啄木の歌碑
石川啄木の歌碑の近くにある「三相の像」
石川啄木の歌碑の近くにある「三相の像」

 日本の大手私鉄の終・始発駅でも同様の構造を採用している駅は多いのだが、発着するのが近距離の通勤電車ばっかりで〝終着駅〟の情緒には欠ける。日本でその雰囲気があるのは〝北の玄関口〟だった頃の上野駅が唯一だろう。

 現在の上野駅は1〜12番線が高架式の島型ホーム、地上の10~17番までが櫛形ホーム、さらに、地下に降りると19〜22番の新幹線ホームがあるという三層構造になっている。

16番ホーム(宇都宮線・高崎線)から撮影。上に高架式の島型ホームが見える。
16番ホーム(宇都宮線・高崎線)から撮影。上に高架式の島型ホームが見える。

 昭和60年(1985)3月に東北・上越新幹線の上野駅が開業された頃から、地上の櫛形ホームを発着する長距離列車や夜行列車の廃止が相次ぐようになったという。しかし、私が記憶している80〜90年代の上野駅の地上ホームにはまだ、終着駅の雰囲気が濃厚に漂っていた。

 70年代末に大ヒットした『津軽海峡冬景色』の一節、上野発の夜行列車……は、この頃もまだ健在。櫛形ホームから発着する夜行列車も、それなりの数が運行されていた。

 東北・上越新幹線が上野駅に乗り入れた翌年、昭和61年(1986)改正の時刻表を見てみれば、当時、上野駅から発着していた夜行列車は1日20本にもなる。東北方面からの夜行列車が続々と到着する6〜7 時台の地上ホームには、終着駅らしい雰囲気を感じることができただろう。

 昭和63年(1988)に青函トンネルが開業すると、東京と札幌を結ぶ「北斗星」の運行が開始した。それが〝北の玄関口〟のイメージを人々に再認識させることになる。

寝台特急北斗星 EF510
寝台特急北斗星 EF510

 シャワー付き個室寝台、本格フルコースディナーが味わえる食堂車など、現在も多く運行される豪華寝台列車の先駆け的存在。バブル景気の最盛期という時代の雰囲気に適合した豪華な汽車旅は、当時の雑誌やテレビなどでもよく紹介された。人々の関心が集まり切符の入手が難しい状況に。北斗星が発着する時刻になると13番ホームには、乗客にくわえて見物客も押し寄せてにぎやかな雰囲気に包まれていた。

 しかし、平成3年(1991)には東北・上越新幹線は東京駅まで延伸された頃から、上野発の夜行列車や長距離特急の廃止が目立つようになってくる。平成22年(2010)に東北新幹線が青森まで延伸されると、その後のダイヤ改正で上野駅発着の在来線長距離列車はほぼ消滅。平成27年(2015)には北斗星も定期運行を終了し、上野駅から発着する定期運行の夜行列車もなくなってしまう。

 また、同年には「上野東京ライン」の愛称で呼ばれる新路線が開通。それまで上野駅から発着していた宇都宮線、高崎線、常磐線などの近郊列車も、上野を通過して東海道線に直通運行するようになった。ほとんどの列車が、上野駅を通過するようになり、もはや「北の玄関口」のイメージも風前の灯火か。

集団就職列車が発着した18番線

 北斗星が発着していた13番線ホームの壁面は今年夏に大改装されて「PLATFORM13 」という名称がつけられた。プラットホームに沿ってある壁に17面のプロジェクターを設置して長大なモニターを構築、今後はアート作品の発表や情報発信などに活用してゆくという。

13番線ホームのPLATFORM13
13番線ホームのPLATFORM13

 隣の14番ホームから眺めると、全長約100メートルの壁面に映し出される映像は圧巻の眺めだ。列車が頻繁に入線するホームだと、こんなふうに使うのは難しいのだが。

 現在、13番線に入線する定期列車は、20時50分に発車する宇都宮行きの1本のみ。昼間は入線する列車がなくホームには誰もいない。なかなか上手なデッドスペースの活用方法ではある。

 13番線に限ったことではない。ずらりと並ぶ櫛形ホームには、入線してくる電車はほとんどなくどこも閑散としている。照明が少なく薄暗く、それが、寂しい雰囲気をいっそう濃くしているような。しかし、昔の上野駅はもっと明るかった。櫛形ホームと中央改札口の間の広場には、陽が燦々とが差し込んでいた。

 駅構内が暗くなったのは、平成12年(2000)に上野駅構内を横断する東西自由通路の設置が原因。〝パンダ橋〟の愛称で知られるこの巨大な跨線橋に日差しを遮断され、地上ホーム周辺の雰囲気は一変してしまった。

 また、陽が差していた頃の地上ホームは現在よりも広い。乗り場は20番まであったのだが、80年代に20番と19番が廃止され、90年代末には18番が廃止された。18番線は廃止後もホームは撤去せずに、現在は職員専用通路として利用されている。16・17番線ホームに立って右手の方角に目をやれば、昔のままに残る18番線のホームを見ることができる。

地上にある18番ホーム
地上にある18番ホーム

 高度経済成長期には、東京で就職する若者たちを乗せた専用臨時列車が数多く運行されるようになる。〝集団就職列車〟とも呼ばれたこの臨時列車が到着してくるのが18番線だった。列車が到着すると、早朝のホームに学生服やセーラー服の集団がぞろぞろと降りてくる。当時は上野駅の春の風物詩にもなっていた。

 集団就職列車が頻繁に発着した昭和39年(1964)には、上京する若者たちの心情を歌いあげた『あゝ上野駅』が大ヒット。歌詞にでてくるホームの情景も、おそらくこの18番線をイメージしたものだろうか。

JR上野駅広小路口前に建つ「あゝ上野駅」歌碑
JR上野駅広小路口前に建つ「あゝ上野駅」歌碑

もうひとつの〝終着駅・上野〟はいまも健在

 中央改札口を出て後ろをふり返る。と、そこには頭上には洋画家・猪熊弦一郎作の描いた壁画があった。東北地方の名物や風俗を描いた幅20メートルにもなる大作、多くの夜行列車が発着していた頃ならば「北の玄関口」をいっそう強く印象づけたことだろう。

中央改札口を出て右側の一角に、かつては待合所が設置されていた
中央改札口を出て右側の一角に、かつては待合所が設置されていた
中央改札口前の屋根に描かれた猪熊弦一郎作の壁画
中央改札口前の屋根に描かれた猪熊弦一郎作の壁画

 昔の写真を見てみると、中央改札を出たコンコースに商業施設はなく、現在よりずっと広く見通しがいい。アトレやインフォメーションになっているあたりには、椅子をならべた待合室があったという。集団就職列車が到着する朝には、この待合室に目印の旗を持った雇用主が待機して就職者を出迎えた。

 出迎えの人と会えず途方に暮れる者もいる。不安げな表情で待合室の椅子に座る若者は、誰が見ても上京したばかりの田舎者だと分かる。それを狙ったスリや置き引き、騙してタコ部屋や風俗に売り飛ばそうという人買いや女衒、等々。悪い輩もここには多い。パリ北駅やローマのテルミニ駅など、ヨーロッパのターミナル駅と同様に、北の玄関口だった頃の上野駅は、現在よりも治安が悪く危ない場所だった。

昔の上野駅(正面玄関口)の写真
昔の上野駅(正面玄関口)の写真

 現在のコンコースには、多くの飲食店が出店している。出口付近には世界的レストランチェーンの Hard Rock CAFE があり、その先の広小路口を出ると右手にスタバのカフェテラス……昭和時代の演歌に唄われた頃とは違って、お洒落な感じになっている。

現在のJR上野駅 広小路口
現在のJR上野駅 広小路口
現在のJR上野駅 正面玄関口
現在のJR上野駅 正面玄関口
JR上野駅公園口を出たところから京成上野駅方面を撮影。写っている道路は上野公園通り。
JR上野駅公園口を出たところから京成上野駅方面を撮影。写っている道路は上野公園通り。

 広小路口からガードを潜り抜けて上野公園の方面に向かうと、外国人観光客がやたら増えてきた。上野には外国人観光客に人気のアメ横がある。しかし、同じくインバウンドでにぎわう浅草や渋谷とは違って、ここではキャリーケースやバックパックなどの大荷物を持った外国人もやたら目につくのだが……あっ、そうか。
上野には、成田空港からのスカイライナーの終着駅・京成上野駅もあるのだった。

 空港からの電車を降りて、ここがはじめて目にする東京の街並み。未知の国の旅行に不安もあるのだろう。少し緊張した感じの外国人も見かけられる。その心情は、昔の集団就職の若者たちと少し似ているか?

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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