戦国連歌 一流の武将のたしなみ、思わせぶりも深読みも

 戦国武将の三大教養、能と茶の湯と和歌・連歌。これぐらいは嗜んでいないといかに勇猛であっても「蛮勇ばかりの猪武者よ」と笑われてしまいます。中でも連歌は大人数で言葉を連ねる遊びですから思わず心中が漏れてしまったり、当てこすりを言ってみたりと面白さも格別です。

連歌そもそも

 五・七・五の発句を始めとして、五・七・五の長句と七・七の短句を交互に複数の者が詠み合う、これが「連歌」という遊びです。多人数で1つの作品を作り上げる世界にも類例を見ない特異な文芸形式と言われます。

 奈良時代に始まり、平安時代を経て鎌倉時代になると、50・100・120句といくつかの形式が生まれ、100句を基本とする百韻の形に落ち着きます。

 連歌は多人数が集まった時の遊びにふさわしく、南北朝時代から室町・戦国時代に大いに流行りました。特に好んだのが足利将軍家で、京都の北野神社で一万句の連歌を奉納する大規模な連歌会を催したり、連歌会を開くときの諸事に対応するための「連歌会所奉行」などという役職まで設けています。

短連歌

 和歌を詠めない公家はまずいません。公家社会で和歌の贈答は日常の事で、大切で便利なコミュニケーションツールでした。正面切ってはっきり言ってしまっては角が立ちそうな事でも、歌の形式にして “匂わす” 的な使い方をします。「察してくださいな」「空気読めよ」というやつですね。

 次の歌は源氏物語の中で夕顔が恋人の頭中将に詠みかける歌です。

「山がつの垣は荒るとも折々にあはれはかけよ撫子の露」

(山がつの垣つまり私の事は放っておいてもかまいませんが、貴男との間に出来た姫君は心にかけて下さい)

 はっきり言わずに男の訪れを促している歌です。これに対し、頭中将は

「咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき」

(様々な花が咲く中でやはり常夏の花の貴女が一番美しい)

と返して、まず母親の夕顔を褒めて機嫌を取ります。

 こうした和歌の贈答は恋の場面でも、朝廷の正式な儀式でもあらゆる場面で行われます。

 和歌の贈答と同じように和歌を長句と短句の2つに分けて詠み合い、一首の歌にする事で、会話を気の利いたものにできます。これを「短連歌」と言います。

 文治5年(1189)、源頼朝が奥州藤原氏を討つために歌枕として名高い名取川に差し掛かります。ここで頼朝が詠んだ長句「我ひとり今日のいくさに名取川(今日の戦では私1人が名を上げよう)」との気負いですが、傍にいた梶原景時は

「君もろともにかちわたりせん」

(いえいえ、私もお供をして貴方様のために働きますぞ)

 と付けて忠誠心をアピールします。

 “我” に対して “君”、“徒歩(かち)” と “勝ち” をかけた技巧も効かせてあり、とっさによく詠めた歌です。

 時代が下って江戸時代前期、元禄忠臣蔵・赤穂浪士の大高源吾(おおたか ただお)は、年の暮れに両国橋で俳諧の師匠・宝井其角(たからい きかく)と行き会います。其角は落ちぶれた身なりの源吾を見て、自身の羽織を与え「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠みかけます。

 源吾の返しは

「明日待たるるその宝船」

(憐れんで下さるな、今宵こそ本懐を遂げる討ち入りの日)

です。短連歌を続けると50韻・100韻の連歌になります。

戦場でも連歌会

 戦国武将の多くは和歌を詠み、同時に連歌も嗜みました。和歌は1人で詠んでいれば良いのですが、連歌は基本的に連歌衆が一堂に介して楽しみます。

 南北朝時代、楠木正成が籠る千早城を鎌倉幕府軍が取り囲みます。千早城は難攻不落、攻めれば攻めるだけこちらに損害が出るとして、兵糧攻めにしようと幕府側は腰を据えました。そこで暇つぶしに開かれたのが「万句連歌」(百韻連歌を10回繰り返したもの)です。

 わざわざ都から連歌師を呼び寄せ、百座に分かれて「百韻連歌」(100句を連ねて構成された作品形式)を始めました。

  • 発句「咲きかけてかつ色みせよ山桜」
  • 脇句「嵐や花の敵なるらん」

 発句は先駆けや勝つなど縁起の良い言葉を織り込み、脇句も合戦の縁語 “敵” を使うなど、陣中の連歌会らしく縁起を担ぎます。もっとも合戦の結果は知略を尽くし、奇策を弄した楠木軍の勝利になりましたが…。

戦勝祈願の連歌会

 戦国武将も競って主人となり、連歌会を催します。どんな客人を集め、どんな有名な連歌師を招けるか、大規模な連歌会を主催できるのはステータスです。織田信長の家臣たちが主人となって茶の湯の会を開くのにも序列があったのとおなじですね。

 現在に伝わる史料を見ると、連衆同士が座る距離がかなり近い連歌会は、家臣の一体感を高めるのに持ってこいです。主君の開く連歌会では「良い歌を詠まねば」との緊張もあったでしょうが、わやわやと我勝ちの物語をして、たびたび笑いがどよめく場面もありました。

 また、出陣に臨んでは合戦の勝利を祈願して神社で連歌を詠み、それを奉納します。有名どころでは天正10年(1582)5月、本能寺の変を前にした明智光秀が愛宕山で催した『賦何人百韻』、通称『愛宕百韻』です。

明智光秀が愛宕山で催した連歌の図(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
明智光秀が愛宕山で催した連歌の図(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

「ときは今あめが下しる五月かな」

 上記の光秀の発句は、謀反の決意を漏らした句として深読みされたりします。

 なお、豊臣秀吉の朝鮮出兵を前にした文禄元年(1592)には、吉川広家が先陣を務める毛利家の勝利を願い、願主となって2ヶ月ほどかけた大規模な会が開かれます。都合十万句が詠まれ、伯耆の大山寺に奉納されました。

様々な連歌会

 戦勝祈願だけではなく、めでたく勝利を収めれば御礼の連歌を奉納することもありました。

 永正元年(1504)9月、山内上杉家と扇谷上杉家の争いで、今川氏親は北条早雲と共に扇谷上杉側として戦い、勝利しました。氏親が帰国し、発句のみ氏親が、残りを連歌師の宗長が1人で詠んだ千句が、伊豆国一の宮の三島神社に奉納されます。

「たなびくや千里もここの春がすみ」

 上記の発句はいかにも戦いに勝った武将のゆったりした詠み具合です。

 新築も連歌で祝いました。連歌師宗長が駿河の興津に立ち寄った時、土地の物持ちが新しく屋敷を建て、そのお祝いと火事などに会わぬように、との願いから連歌会を開きます。呼ばれていった宗長は「月の秋の宿とみがくや玉椿」と如才なく屋敷を褒め上げ、たっぷりの報酬を得ます。

 さらに連歌を詠むことは病気平癒や安産祈願にもなるとされ、近在の家で難産で困っていた時に宗長の師である宗祇が安産を祈って発句を詠みます。

「摩訶般若はらみ女の奇特かな」
 これに宗長が「一二も済んでさんの紐とく」と脇句を付けると、たちまち男児を産み落としたとか。戦勝祈願や病気平癒・安産祈願など、何人もが心を1つにして詠む連歌には不思議な言霊が宿ると思われていました。

おわりに

 俳句の時代になっても連歌は続きます。江戸時代に大流行した狂歌も、五・七・五と七・七を2人で付け合ったりして楽しむこともありました。

 「複数の者が句を詠み合う」この形式が不特定多数が参加出来るインターネットの仕様にマッチしたのでしょう。現在でもネット連歌を楽しむ方々がいらっしゃいます。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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