田沼時代はなぜ終わったのか?庶民の怒りが生んだ“田沼バッシング”
- 2025/08/13

近年の研究では、先進的な経済政策を行った人物として再評価が進む田沼意次。しかし、その生涯の終盤は激しい批判と失脚の連続でした。
庶民の不満が爆発した背景には何があったのでしょうか。田沼時代の終わりを告げた、社会全体を巻き込んだ「田沼バッシング」の真相に迫ります。
庶民の不満が爆発した背景には何があったのでしょうか。田沼時代の終わりを告げた、社会全体を巻き込んだ「田沼バッシング」の真相に迫ります。
庶民の怒りが爆発! 田沼意知の死をきっかけに
田沼意次は、幕府の利益を優先する政策を次々と打ち出しました。しかし、その強引なやり方は庶民の反発を招き、不満は徐々に蓄積されていきました。さらに、相次ぐ天災や飢饉による物価の高騰、農民の離農と都市への流入による治安の悪化など、庶民にとって苦しい出来事が続いたことで、意次への批判は高まる一方でした。その不満が一気に爆発するきっかけとなったのが、佐野政言(さのまさこと)による田沼意知(おきとも)刃傷事件です。世間は政言を「佐野大明神」と称え、意知の葬儀の行列には石が投げつけられるほどだったようです。
こうした状況を冷静に見ていたのが、次期将軍候補・徳川家斉(とくがわいえなり)の実父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)です。治済は人事権を握っていたため、この機に乗じて田沼一族の失脚を考えるようになったと思われます。しかし、10代将軍・徳川家治(いえはる)が意次を深く信頼していたため、すぐには行動を起こせませんでした。
そして天明6年(1786)、家治が病に倒れて亡くなると、ついに猛烈な田沼排斥運動が始まります。
類例を見ない苛烈な処分
家治の死が迫ると、意次は「将軍の勘気を被った」として、家治の側から遠ざけられます。これには、治済らの暗躍があったと思われます。もし家治の口から「これからもよろしく頼む」などと、意次を重用するような遺言を残されでもしたら、排斥運動に支障が出ると考えたのでしょう。
家治の死後、意次は老中を罷免され、いわゆる「名ばかりの役職」である雁間詰(かりのまづめ)に降格させられました。現代の会社でいう実質的なクビです。さらに、家治時代に加増された2万石は没収。大坂の蔵屋敷や江戸屋敷も取り上げられたあげく、蟄居を命じられて、2度目の減封を受けます。
その後、居城である相良城(さがらじょう)も打ち壊されてしまいます。城内にあった8万両のうちの1万3千両、そして米や塩、味噌を、備蓄用との名目で没収されるという、まさに「身ぐるみ剥がされる」ような過酷な処分でした。
甥の田沼意致(おきむね)も、小姓組番頭格という軽い役職ながら、田沼一族というだけで罷免されました。一橋治済らの目的は、庶民の不満の矛先を意次に向けさせ、徹底的に罰することで不満を鎮めることだったのでしょう。
意次には3人の男子がいましたが、長男の意知以外は養子に出されており、失脚後に家督を継ぐことはできませんでした。そこで孫の龍助(りゅうすけ)が、陸奥下村(むつしもむら)1万石に減転封される形で家督を継ぐことを許されました。大名としての地位はかろうじて維持されたものの、明らかな冷遇でした。
そして天明8年(1788)、意次は江戸で亡くなりました。享年70歳でした。
田沼意次悪人説の成立
一般庶民の怒りの矛先は「賄賂政治」という言葉で表現されていました。確かに田沼意次の時代に賄賂が横行していたのは事実ですが、それは以前から存在していた問題だったのです。つまり「賄賂政治家、田沼意次」という追及は的を得ていないことになります。民間の利益追求と幕府の利益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行されましたが、その大半は利益より弊害が多く、撤回に追い込まれるケースも多発していました。確かに利益追求型の政治は意次が始めたことですが、出世をもくろんだ他の人物が献策を行い、失敗してしまった例も多いのです。元をたどれば意次の施政方針が原因とはいえ、そうした他の人物の失敗までも意次のせいにされていたのです。
その結果、田沼意次に対する一般的な歴史的評価は決して良いものではありませんでした。意次の先進的な政策が見直されるようになったのは、比較的最近のことです。しかし今でも、教科書などでは「賄賂政治家」という言葉が使われることも少なくありません。
おわりに
田沼排斥運動がひと段落し、庶民の怒りが少し収まった頃、罷免されていた田沼意致は幕府に復職を許されます。もともと幕政の中心にはいなかったためです。しかし、意致は世間の田沼家に対する激しい反発を恐れたからか、躊躇して辞意を述べています。それほどまでに、当時の「田沼」という名前は、人々に嫌悪されていたのです。【主な参考文献】
- 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版、1994年)
- 江上照彦『悲劇の宰相・田沼意次』(教育社、1982年)
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