大河ドラマ「べらぼう」 田沼意知と佐野政言…なぜ政言は神と讃えられ、意知の葬列には石が投げられたのか?
- 2025/07/28

大河ドラマ「べらぼう」第28回は「佐野世直大明神」。天明4年(1784)3月、老中・田沼意次の子・意知(若年寄)は江戸城中において、旗本・佐野政言に斬り付けられ致命傷を負い、死亡します。
政言は「乱心」とされ、切腹を命じられました。政言が葬られたのは徳本寺(東京都台東区)です。すると徳本寺には多くの人々が参詣してきました。政言の墓には仏花が数多く供えられ、線香の煙がもうもうと立ち上ったと言います。徳本寺の賽銭箱には14・15貫文の銭が毎日のように投げ入れられたというから凄いものです。参詣者の群れに対し、花や線香を売る商魂逞しい者も現れます。人殺しの犯罪者とも言うべき政言の墓になぜ多数の人々は詣でたのでしょうか。それは数年前からの飢饉や災害が要因とされています。
天明2年(1782)は凶作。その翌年には浅間山の大噴火により凶作となり、意知が殺された天明4年は大飢饉となったのです。令和の世にも米の値段が上がる「令和の米騒動」が起こりましたが、当時も米の値段が全国的に上がっていました。そうなると当然、庶民の暮らしは困窮します。ところが政言が切腹した翌日(または刃傷事件の翌日)には米の値段が下がり始めたと言われます。このことにより、人々は政言に感謝。政言は人ではなく神だとの言説が生まれ、政言は「世直し大明神」として崇められたのでした。

一方、田沼家には人々の悪意が向けられます。意知の葬列に人々は石を投げたのです。ホームレスが物乞いをしたところ何もくれなかったので、ホームレスは怒り投石。それに続いて一般の町人までもが葬列に投石し、悪口を浴びせたのです。「田沼政治」への批判意識と飢饉、米価高騰などが相俟って、一気に爆発した形と言えるでしょうか。意知の死により「田沼家の権勢の終点、限界がはっきりと見えた」とする見解もあります(藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年)。
【主な参考文献】
- 藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007年)
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