「学士会館・九段会館」数々の映画やドラマの舞台にもなった都心に残る昭和初期の名建築

学士会館(千代田区神田錦町)が閉館

 神田の学士会館が老朽化により建て替えられることになり、2024年末に閉館した。

 昔から映画やドラマのロケに使われた昭和初期の代表的名建築。近年ではドラマ『半沢直樹』の名シーンが撮影されて話題になった。

 別れを惜しむ大勢の人々が詰めかけた昨年12月29日の営業最終日の様子が、テレビでも報道されている。私もそれで閉館を知り、年明け早々、現地に行ってみることにした。

再開発計画について説明した看板
再開発計画について説明した看板

 建て替え工事が始まるのは春になってからだという。それまでにはまだ時間はあるのだが、急がねばならない。建物をフェンスで覆う工事の準備は、それよりもずっと早くにおこなわれるだろう。ある日突然に建物が見えなくなってしまうなんてことが、この後はいつ起きても不思議ではないのだから。

 地下鉄・神保町駅から白山通りを歩くうち、少し寂しい気持ちになってくる。道沿いには集英社や小学館などの出版社があり、仕事柄よく立ち寄る場所ではある。また、通りを挟んで対面にある共立講堂にはよくコンサートを観に行った。昔からよく知った場所、通りを歩いていて目に映る風景も慣れ親しんできたものだ。

白山通りから見た学士会館外観
白山通りから見た学士会館外観

 学士会館については眺めているだけで、館内には入ったこともない。まったく縁のない存在ではあったのだが……風格を漂わせるネオ・ロマネスク様式の外観や半円形の大アーチ玄関は印象深く、昔から知る白山通りの風景として脳裏に刻み込まれている。

 その眺めが消滅する、あるいは、大きく変貌してしまう? どちらにしても寂しいものだ。

学士会館の敷地沿いにある新島襄生誕地の碑
学士会館の敷地沿いにある新島襄生誕地の碑
学士会館の敷地内にある野球発祥地の碑
学士会館の敷地内にある野球発祥地の碑

旧館は取り壊しを免れたのだけど

 明治19年(1886)に帝国大学令が公布され、日本内地の7校、外地の朝鮮と台湾にそれぞれ1校ずつ帝国大学が設置されることになった。すでに明治10年(1877)に開校していた日本初の大学である東京大学も、この時に東京帝国大学に改称している。

学士会館玄関脇にある東京大学発祥の地の碑
学士会館玄関脇にある東京大学発祥の地の碑

 また、東京大学創設時に発足した卒業生たちの親睦会は、全国の帝国大学出身者の親睦と知識交流を目的として組織を拡大して「学士会」を名乗るようになった。

 「学士」は4年制大学卒業者に与えられる学位だが、当時、早稲田や慶応などの私学は大学とは認められず専門学校の扱い。学士になれるのは、日本内地に7校しかない帝国大学の学生に限られていた。それだけに帝大生たちはこの名称にプライドを感じ、こだわりも強かったのだろう。

 明治時代末期には大学令に基づいて京都、東北、九州の帝国大学が開校し、北海道や大阪、名古屋、京城(現在のソウル)、台北でも開校の準備が着々と進められていた。学士会の会員数もこの頃から急増する。

 大正 2 年(1913)には、会員たちの集いの場として西洋風木造 2 階建ての施設も建てられた。が、完成の翌月には火災で焼失してしまう。すぐに再建計画に着手したのだが、関東大震災などの影響で工事が遅れ、やっと竣工したのが昭和 3 年(1928)のこと。これが現在の学士会館旧館である。

学士会館旧館の正面玄関
学士会館旧館の正面玄関

 ちなみに総工費は約106万円。企業物価指数で換算したところ、その貨幣価値は現代の約6億5000万円に相当する。

 また、昭和12年(1937)には新館も建てられたのだが、こちらの総工費は約60万円だという。地上 4 階建ての旧館に比べて、その後方に隣接する 5 階建ての新館はひとまわり大きいのだが、建設費は格段に安上がりになっている。

 旧館の再建が始まったのは関東大震災直後で、東京の各地で復旧工事がさかんにおこなわれた時期。建設資材が不足して高騰していたようである。一方、新館の建設計画は昭和恐慌直後の不況で、物価が下落するデフレ現象が顕著だった。そんな経済状況が建設費にも影響したか?

 近くに寄って、新旧の建物をじっくり見比べる。すっきりした感じの新館の外観に比べて、旧館の造りは細かく凝って造っているような……意匠の違いが建設費にも影響しているのか? とか、思ったりもする。

敷地の裏側。新館(右)と旧館(左)を見比べる。
敷地の裏側。新館(右)と旧館(左)を見比べる。

 また、建設が計画された時期、大正と昭和の流行の違いとかも見えてくる。あれこれ想像しながら新旧の建物を見比べるのは、じつに興味深く面白いのだが……残念、それを楽しむのもこれが最初で最後になるだろう。

 学士会館の建て替えは、白山通りを拡張する大規模な都市計画事業の一環。道路の拡張にあわせて旧館は東側に7メートルほど曳家して移築するという。

 旧館は登録有形文化財なだけに破壊を免れた。が、新館のほうは文化財に指定されておらず取り壊しが決定している。

学士会館旧館の玄関前に掲げられた登録有形文化財のプレート
学士会館旧館の玄関前に掲げられた登録有形文化財のプレート

 ピッタリとくっついて建っている旧館と新館は、白山通りから眺めていると 1 棟の建物のように見える。その半分以上を取り壊せば、当然、外観も一変するだろう。

表側、白山通りから旧館(手前右側)と新館(奥左側)を見比べる
表側、白山通りから旧館(手前右側)と新館(奥左側)を見比べる

 当然、周囲の景観にも影響を及ぼす。今後は白山通りも再開発で拡張されるようだし、数年後には、

「ここは、どこ?」

 ってな、見覚えのない眺めになっているのかもしれない。

九段会館もまた大改築されていた

 さて、学士会館のある神保町からは靖国通りを西へ500〜600メートル、徒歩10分ほど歩いた場所には九段会館がある。いや、かつてあったというべきか。

 九段会館は昭和3年(1928)の昭和天皇即位事業として建設が計画され、昭和9年(1934)に完成した。同じ昭和初期の歴史的建造物であり場所も近いことから、学士会館と混同している人もいるようだが。

 かつての九段会館の館内にはホール(講堂)や食堂、宿泊施設が完備され、会員の集会や親睦がおこなわれていた。設備や使用目的も学士会館とよく似ている。が、施設が開業された当時の雰囲気は学士会館と比べて、かなり厳しいものだったと思われる。

戦前の九段会館(軍人会館)を描いた敷地内プレート
戦前の九段会館(軍人会館)を描いた敷地内プレート

 戦前の頃、会員は予備役や退役した軍人で占められる。なにしろ、建設計画を主導したのが在郷軍人会であり、当時の名称も「軍人会館」だった。また、二・二六事件の時には戒厳司令部が設置されるなど、旧軍との関係が深い。

 戦後は進駐軍に接収されるが、接収解除後は国有財産となり日本遺族会に無償貸与された。その後は九段会館に名称を変更し、昭和32年(1957)から貸しホールや宿泊施設、宴会場として営業を開始している。

 都心の便利な場所にある1000名を越える収容人数を誇る大ホールは、かつては入学式や卒業式にもよく使われていた。しかし、平成23年(2011)、専門学校の卒業式の最中に東日本大震災が発生し、天井が崩落して2名が死亡する事故が起きてしまう。

 この事故により九段会館は閉鎖され、遺族会は施設運営を廃業して建物を国に返還。会館の長い歴史に突如として終止符が打たれた。

旧九段会館の柱脚部分に使われていた鉄筋
旧九段会館の柱脚部分に使われていた鉄筋
敷地に屋外展示されている旧九段会館の解体部地中から取り出したコンクリート杭。現在も約1900本の杭が保存部分を支えている。
敷地に屋外展示されている旧九段会館の解体部地中から取り出したコンクリート杭。現在も約1900本の杭が保存部分を支えている。

 このまま取り壊される可能性もあったようだが、平成28年(2016)に一部保存が決定し、有形文化財への登録手続きも進められる。

 その後、建物の外壁部分を残し、地上17階建てのビルに建て替える工事がおこなわれた。令和4年(2022)10月に工事が完了し、「九段会館テラス」という名称のオフィスビルとして再開業している。

九段会館テラスの全景
九段会館テラスの全景

 じつは、改装工事後の姿を見るのは私もこの時がはじめてだった。靖国通りを行くと左手に見えてくるその眺めに、

「昔のままだなぁ」

 と、思わずつぶやく。

 鉄筋コンクリート造りの洋風建築の上に和風の屋根を乗せた帝冠様式は、国威発揮を掲げる昭和10年代に流行した建築様式だという。九段会館はその先駆け的存在だろうか。それが当時のままに残っている。

 実際には外壁だけ残し、生物でいえば剥製のような状態なのだが……威圧的な雰囲気は、背後に聳える 17 階建ての高層建築が霞んで見えなくなるほどの存在感があった。だから〝昔のまま〟に変わらぬ風景と、錯覚したのだろう。

 移築後の学士会館もまたこんな具合に、いい感じの錯覚や見間違いのできる眺めになら幸いなのだけど。どうなるのやら。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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