年貢さまざま…納めるのは米だけじゃない?漆あり薄ありヤマイモあり檜皮あり

 領主は徴収に躍起になり、民人は納めるのに四苦八苦する…。江戸時代以前の日本において、年貢は主に米や銭で納められましたが、中にはちょっと変わった納品物もありました。

 縄文時代の遺跡から漆塗りの器や櫛、腕輪が発掘されます。アジア大陸に自然に生えていた漆の木は、縄文時代に日本に伝わり、広まったと考えられています。

 敏感な人だと近寄っただけでかぶれる漆ですから、最初は縄文人も忌避していたと思われます。しかしいつのころからか、その樹液の有用性に気付きます。滲み出す樹液を塗った品物の美しさや優れた耐久性が愛され、現在まで漆液は大切な資源として守られてきました。

漆椀
漆椀

 樹皮を傷付け、そこから滲みだす乳白色の樹液を集める“漆掻き”は、現在でも人手による手間暇のかかる作業です。樹液の採取は樹齢10年以上の木から行い、1年間で採れるのはわずか200グラム程で、これは汁椀なら数個塗布出来る程度の量です。日本産の漆樹液は高品質ですが、肝心の漆の木が年々減少し、現在日本で使われる漆樹液の大半は中国産となりました。

 この貴重な漆樹液に目をつけた領主が年貢として納めさせます。納める単位は“杯”で、1杯2杯と樹液そのままを納めます。中世日本では越前や若狭の国、山陰地方が特産地でした。1880年代の調査では、日本の漆掻きや漆を売買する1万2千人のうち、5千人が福井県の人々でした。

戦国サウナの焚き木、杪

 越前国の糸生郷では杪(ほえ)、つまり木の枝を年貢として納めるように指定していました。杪とは枯れ木の細枝を20cm程度に切り揃えたもので、火付きが良く、火の熾こし初めに使います。納めた杪は風呂用の焚き付けにする、という用途も決まっていました。戦国時代の風呂は蒸し風呂、つまりサウナで、この時代の寺社には付き物の設備です。

 宗教儀式で僧侶や神官が身を清めるのに使うのですが、それ以外にも一般人へ功徳として開放したり病人の治療に使ったりもします。この土地の劔(つるぎ)神社には蒸し風呂があったことが記録されています。昔は竈の火を熾す必需品でもあり、庶民も各自の家の軒先に“杪棚(ほえだな)”を作り、薪と一緒に積み上げておきました。

 同様に木炭や薪も年貢になります。樹種までは指定していませんが、おそらくコナラやクヌギなどの広葉樹だったと思われます。

野山の産物

 野山に自生する恵みも年貢になります。ヤマノイモや野老(ところ)・蕨などです。ヤマノイモはヤマイモ科の多年草で地下茎を食べますが、炭水化物が豊富で飢饉の時には真っ先に掘り出されて食べ尽くされます。

ヤマノイモ
ヤマノイモ

 調理法で有名なのは芥川龍之介の小説にも書かれた『芋粥』です。当時の高級料理で宴席でコース料理の最後に出てくる甘いデザートですが、すりおろしたり、和え物にしたりする現在の私たちの食べ方とは少し違います。

 劔神社が朝倉義景へ新春の祝いとしてヤマノイモを贈り、義景からの礼状が残っています。永禄11年(1568)には室町15代将軍・足利義昭が一乗谷の朝倉義景の館を訪れ、共に宴席でヤマノイモを食べています。

薄(すすき)

 薄も年貢の品に数えられ、単位は“束(そく)”で納められます。現在では列島のどこにでも自生して時には雑草として刈り取られますが、戦国時代の日本では重要な建築素材でした。

薄

 薄や茅など屋根を葺くのに使う丈の高い草を総称して萱(かや)と呼びます。屋根材の他に雪国では戸や壁に立て巡らせ、雪害や寒さを防ぐ“雪囲い”として使います。

 山腹や土手・小高い丘に薄原があり、どこにでも生えていそうに思いますが、草地として何年も生え続けるには条件があります。日本列島は大体が湿潤で温暖と樹木の生育に適しており、草地でも放っておくと次第に森林化してしまいます。草地のまま継続するには人間の手入れが必要で、特に屋根材用のまっすぐで太さが揃った薄を優勢作物にするには人間が野焼きをせねばなりません。

 また、前年の枯れ草を取り除くなど、家畜の飼料用の草地より手間がかかります。刈り取る時期も枯れて水分量が少ない晩秋から冬に限ります。薄原を継続的に利用するには人間の手による管理が必要なのです。

 塩、これはもう人間が生きていくうえで欠かせない重要なものです。年貢としても値打ちのあるもので、海岸部にある集落では塩田を造ってせっせと海水を汲み上げ、太陽光で濃縮して行きますが、最後は濃縮された海水を加熱して水分を分離し、固形化します。

 この時には薪が必要ですが、海岸部には良い薪材がありません。そこで領主が間に入り、山間部集落の年貢としての薪材納入を免除し、塩造りの集落へ供給させます。武田信玄が今川・北条勢に塩留を食らい、窮地に陥ったエピソードにも見られるように、塩は戦略物資でもありました。領主は塩造りの集落と塩を造る仕組みを大切にしました。

塩

杉・檜の樹皮

 杉・檜の樹皮、これはもう伝統的建造物には欠かせない“檜皮(ひわだ)”ですね。現在では文化財修復時の檜皮集めに苦労されていますが、戦国時代でも檜皮は重要な資源でした。

 檜皮は油分を含み、腐敗に強く、屋根材に最適ですが、原木から剥ぎ取るにも技術が必要です。剥ぎ取りには原木に負担をかけないよう、秋から冬の木の中の水分の動きが少ない時期を選びます。

 木の根元からへらを差し込み、巾25cmぐらいに下から上へ引き剥がします。高い所は身体にロープを巻き付けての危険を伴う作業で、この技術を持った“原皮師”だけが作業出来ます。樹皮を剥がれた原木は10年程度休ませます。

 屋根を葺くにも技術が必要で“檜皮師”と呼ばれる人々が従事します。薄や茅の屋根は一般の村人でも葺けましたが、檜皮は檜皮師でなければ扱えません。檜皮葺の建物が多い寺院や神社は、毎年檜皮師に餅や米を配り、その関係を大切にしました。

 柿は貴重な甘味を得られる食材です。干して串柿にすれば日持ちもしますし携帯にも便利です。柿の木は中国原産の落葉広葉樹ですが、縄文時代には渡来していたようで、遺跡から柿の種が発見されています。八世紀の奈良時代には柿の実は市場でも売られていました。

柿

 干し柿の年貢は村に生えている柿の木の本数によって決められましたが、“柿渋”も重要な産物です。

 “柿渋”とは渋柿の熟れる前の実を砕き、発酵させたのちに布で漉した液です。タンニンを多量に含む赤褐色のトロっとした液体で、防虫効果・防腐効果・防水効果に優れています。木工品や建築用材の下塗りに使われ、防水効果を生かして和傘にも使われました。丈夫な和紙に柿渋を塗り、これまた傘の骨に持って来いの弾力性がある竹を素材にして優れた雨傘である和傘が作られます。

 柿渋は樽に詰めて納められ、こちらは漆と違って壱斗九升とか三斗三升と大量に納められました。


【主な参考文献】

  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。