昔の旅の必須アイテム「わらじ」 どこで手に入れた? いくらぐらい?

 現代のように車も電車も無かった時代、人々はどこへ行くのも自分の足で歩いて行きました。時には馬や駕籠・船に乗ったりしますが、基本歩け歩けです。世が泰平になり庶民も旅を楽しんだ江戸時代、そんな旅人の足元はどうなっていたのでしょうか。

お江戸の旅はわらじ一択

 江戸時代、普段の暮らしで履かれていたのは下駄や草履ですが、これらは鼻緒に足指を引っかけただけで遠出の旅には向いていません。そこで長い ”緒” を足首に巻き付け、しっかり固定できるわらじの出番です。

 幕末の頃にやって来た外国人も

「旅人が履いているものには撚った2本の藁紐がついており、足に括り付けているので容易に脱げる事はない。人夫や兵士などもサンダルと同じように靴の後ろを足に結わえ付け、足を自由に動かせるようにしている」

と書いています。ごくまれに草履履きの旅人もいましたが、ほとんどはわらじ履きです。

 このわらじ、いつ頃からあったのかと言うと、奈良時代に中国から藁で作った履物が伝わって来たのが元と言う説。縄文・弥生のころから、北国で冬の寒さから足を守るために動物の皮で作った雪靴を履いた、その中敷きとして草を編んで敷いたのが元との両説があります。

 いずれにしても遅くとも奈良時代には、爪先で鼻緒を挟むわらじの原型が出来上がっていたようです。

昔の人も悩んだわらじの鼻緒擦れ

 時代劇の役者さんは素足に草鞋を履くものだから、撮影の間中鼻緒擦れに悩まされるそうです。

 昔の人なら履き慣れているから平気かと思うとそうでもないようで、旅好きの物書き八隅蘆庵(やすみろあん)が文化7年(1810)に書いた『旅行用心集』にも、

「旅の初めは静かに踏み出しわらじの加減を良く確かめる事」

と慣れるまでは足を痛めぬように、と注意しています。粗悪なわらじを無理して履き続けると「わらじ食い」を起こすとも言っています。

 「わらじ食い」とは今でいう鼻緒擦れで、昔の人も悩まされていたのですね。『東海道中膝栗毛』にも、

「履きつけぬわらじで足中が豆だらけだ、わらじの紐が食い込んだ」

と嘆く場面があります。「わらじ食い」を起こさぬための工夫もなされて、わらじ紐に布を巻いたりして防ぎました。

 鼻緒擦れはともかく、わらじは履き心地の良い履物だったのでしょうか? どうやらそうではないようです。確かに軽くて安価でしたが、なにしろ底は藁で編んだだけの薄っぺらい物、石がごろごろしている道では直接足裏に響きます。

 また、雨の日やぬかるんだ道では、1日でふやけてしまって使い物にならなくなりました。底に厚さがないので歩いているうちに足裏との間に泥が入り込み、1日歩き通せば足は泥まみれ。宿に着くとまず足洗いの水が出されるのも当然でした。

わらじはどこで手に入れた?

 何週間も時には何ヶ月もかかる道中でわらじを履き通すのですから、一足ではとても足りません。わらじの耐久性はそれほどありませんから、履き捨ての物と認識されていました。では、旅の途中でどこでわらじを手に入れたのでしょうか?

宿場で買う

 宿場の宿屋には当然のようにわらじが売っていました。浮世絵師・渓斎英泉が中山道板橋宿を描いた絵に、店先に何足ものわらじが吊るされ、売られているところが描かれています。

板橋宿を描いた浮世絵(渓斎英泉 画、出典:wikipedia)
板橋宿を描いた浮世絵(渓斎英泉 画、出典:wikipedia)

 画中に描かれた男は前かがみになって馬の履物を換えてやっていますが、馬にも滑り止めや蹄を保護するのに「藁沓」を履かせました。「藁沓」も同じように売っていました。

茶店で買う

 『江戸名所図会』に中山道浦和宿近くの焼米坂の茶店の様子が描かれていますが、ここでもわらじや草履が店先にぶら下げて売られています。

大日本名所図会 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 江戸名所図会. 第1-4巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
大日本名所図会 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 江戸名所図会. 第1-4巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 ここは籾のまま米を炒ってから籾殻を取り除いた焼米が名物でした。土地の名物を食べるのは旅の楽しみですから、ついでにわらじも新しいものに取り換えたのでしょう。

わらじ売りから買う

 『伊勢参宮名所図会』に、道端で子供が旅人にわらじを差し出し買ってもらおうとしている図があります。そのそばでは座り込んでわらじを作っているもう一人の子供が描かれています。

伊勢参宮名所図会 5巻 [3](出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
伊勢参宮名所図会 5巻 [3](出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 おそらく近在の村の子供が小遣い稼ぎをしているのでしょう。他にも何足ものわらじを肩にかけて宿屋の玄関を入っていく子供の絵も残っています。こちらは宿泊客に直接売り付けるつもりです。

 17世紀に来日したドイツ人医師・博物学者のケンペル、そして18世紀にやって来た医師のツュンベリーは、それぞれ

ケンペル:「わらじはどこの村でも吊るして売られている。また物乞いの子供たちが街道で売り付けようとする」

ツュンベリー:「一般に旅人が通り過ぎるような町や村は、どんなに小さくてもわらじを売っている」

と書いています。

 このように農民が稲穂を落とした後の藁を利用して作るわらじは、旅先でも手軽に買える消耗品でした。

わらじの値段と耐久性

 では、わらじの値段と耐久性はどのくらいだったのでしょうか?

 資料によると19世紀半ばで1足15文ぐらいです。蕎麦一杯が32文ですからそれよりは安いのですが、高いものだと100文、安くて12文と値幅の大きいものでした。これは質によるもので、「梅沢と申す在所、わらじ至って能なり。余分に買い求める」との旅日記が残っているように、質の良いものを見つけると買いだめしています。

 耐久性はどうだったのでしょうか。こちらは履き替える距離数を書いたものが残っており、それによると40kmから50kmごとに新しいものを買っています。2日間せいぜい3日間もつかもたぬかです。先にも書いたように雨の日だと藁がふやけてしまい、1日で履きつぶしました。

 多くの旅人が2日、3日で履き替えるわらじの数は膨大なものになりますが、無駄にしない処理法がちゃんとありました。街道筋では旅人が履きつぶしたわらじを捨てる場所が自然と決まっていて、そこには履きつぶしたわらじが山と積まれています。藁は良い肥料になるので近在の農家がありがたく持って帰りました。

おわりに

 昔の人もやっぱり鼻緒擦れには苦労したのですね。下駄や草履を履き慣れているからと言って、足の皮が厚くなったのではないようです。


【主な参考文献】
  • 谷釜尋徳『歩く江戸の旅人たち[1]』晃洋書房/2020年
  • 名久井文明『生活道具の民俗考古学』吉川弘文館/2019年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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