大河ドラマ「べらぼう」蔦屋重三郎が大手版元を差し置いて「吉原細見」を刊行できた訳
- 2025/01/27
大河ドラマ「べらぼう」第4回は「雛形若菜の甘い罠」。
安永3年(1774)7月、蔦屋重三郎は初めての出版物『一目千本』(遊女評判記)を刊行しました。重三郎は老舗の版元・鱗形屋孫兵衛の系列に入り、そこから刊行される吉原細見(吉原遊廓の総合情報誌)の小売等を担っていたのですが、ここに来て版元として初めての出版物を出すに至ったのです。
『一目千本』の絵は浮世絵師として名高い北尾重政が担当していますが、そうした浮世絵界の権威者を起用できたのも、鱗形屋の後援があったからだと推定されています。これは裏を返せば、鱗形屋に重三郎のそれまでの働きが認められていたからと言うこともできるでしょう。
安永4年(1775)7月、重三郎は版元として初めての「吉原細見」を刊行しています。それが『籬(まがき)乃花』です。当時、吉原細見は鱗形屋のみが刊行していました。鱗形屋は吉原細見の独占版元だったのです。普通に考えれば、鱗形屋系列とは言え、その小売を担当していた重三郎が出版できるようなものではありません。
それがなぜか、出版が可能となった。その背後には何があったのでしょう。1つには、鱗形屋が吉原細見を出版する余裕がなくなってきたからだと言われています。同年五月、大坂版の字引『増補早引節用集』の海賊版が江戸で制作されたことが問題になりますが、その海賊版の制作を企てたのが鱗形屋の手代(商家の使用人。丁稚と番頭の中間の身分)だったのです。手代のみならず、鱗形屋自体が海賊版の制作に絡んでいたとの見解もあります。
大坂の版元は江戸で訴訟を起こすことになりますが、そうした事への対応もあって、鱗形屋は同年、吉原細見を刊行できない事態に追い込まれたのではないでしょうか(ちなみに翌年には蔦屋版と鱗形屋版、2種類の吉原細見が刊行されています)。そこに見事に入り込んだのが、蔦屋重三郎だったのです。機を見るに敏な重三郎の様がよく分かります。
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