16歳の少年藩士を1か月脅かした化け物たち!実話怪談『稲生物怪録』
- 2025/06/20

江戸の怪談ブームで注目 備後三次稲生邸で起きた珍事
江戸時代中期に当たる寛延2年(1749)、備後三次(現在の広島県三次市)の稲生正令こと稲生武太夫の体験を纏めた本が出版されました。『稲生物怪録』と題されたその本には、武太夫がまだ平太郎と名乗っていた少年時代に遭遇した、摩訶不思議な出来事が記録されていました。読みは「いのうもののけろく」が正しいとする説と「いのうぶっかいろく」が正しいとする説に分かれ、現在も定まっていません。当初、『稲生物怪録』は柏本の体裁で執筆されました。柏本とは江戸時代に流行った大人向けの娯楽本のことで、三人称形式で記述され、絵が主体となっているのが特徴です。作者は武太夫の同僚の藩士・柏生甫で、直接武太夫から聞いた話を取り纏めています。『三次実録物語』は稲生武太夫本人が書き溜めた自伝的回想録で、代々稲生家に伝えられてきました。残念ながら原本は行方不明になってしまい、現在は写本しか残っていません。通称『平田本』は国学者の平田篤胤とその門下生たちが、『柏本』や絵本の内容を下敷きにまとめたものです。
他に『堀田本』や『吉田家本』、 『稲生武太夫一代記』『稲亭物怪記 完』『稲生霊怪録』『稲生怪譚図誌』など、数々の派生作品が出回っていることからも人気の凄まじさが伝わるのではないでしょうか。
怪事の舞台となるのは備後の国、旧三次藩町内にある稲生邸。両親亡き後16歳で家督を継ぎ、ここで独り暮らしをしている平太郎は、何事にも物怖じしない豪胆な少年でした。寛延2年(1749)5月、平太郎は隣に住む力士の家来・権八と共に、比熊山に肝試しに出かけました。
比熊山の忌み地に佇む古塚に至った二人は、そこで百物語をします。しかし途中でネタが尽き、くじ引きで当たった者が、触ると祟りがあると忌避される神籠石(こうごいし)に印を付けてくることに。当たりを引いた平太郎は約束通り神籠石に印を彫って下山するものの、7月に突入してから身の周りに異変が起き始めます。
なお平太郎が印を刻んだのは石に非ず、山頂の杉の木と唱える説もあるそうです。いずれにせよ罰当たりな振る舞いには違いありません。
飛ぶ生首に落ちる天井 物怪と平太郎の攻防戦
寛延2年(1749)7月1日の夜、最初の怪異が平太郎を襲います。平太郎が寝ていると障子の外が突然昼間のように明るくなり、土塀を超える身の丈の、巨大な一ツ目男がこちらを覗き込んでいました。
謎の一ツ目男は平太郎と目が合うなり、剛毛が生えた腕を伸ばし、彼を捕まえようとします。そこで平太郎は咄嗟に刀を抜いたものの、斬り付ける直前に男は消えてしまいました。この事件を皮切りに平太郎の周りでは昼夜を問わず、連日怪異が起きるようになります。
少し話が逸れますが、『稲生物怪録』を別格の怪談本足らしめているのは、登場する妖怪や化け物のバリエイションの豊かさに尽きます。本作には河童や天狗など、江戸時代の人々が慣れ親しんだ妖怪は一切登場しません。平太郎の家に襲来する怪異はいずれ劣らぬユニークな造形と性質を備え、読者の度肝を抜いたのでした。化け物の脅しを飄々と受け流す、平太郎のキャラがウケたのは言うまでもありません。
二日目には枕元に置いた行燈が突如激しく燃え上がり、天井を焦がします。これに慌てず布団に入ると、畳からみるみる水が湧き出し、部屋中が水浸しになりました。翌朝には部屋も行燈も元通りになり、天井の焦げ目も修復されています。
次の夜には床の間の小さな穴から女の生首が這い出し、上下逆さまの状態で部屋中を飛び回った挙句、平太郎の顔面をべろべろ舐め回しました。想像すると嫌すぎます。

なお、タチが悪いことに、平太郎を襲った怪異は精神攻撃と物理攻撃の両方を仕掛けてきました。
囲炉裏の灰から生じた人面が大きく口を開けたかと見るや、大量のミミズを吐き出すのは序の口。ある時は虚無僧の集団が部屋に犇めいて滅茶苦茶に尺八を奏じ、安眠を妨げます。ある時は葛籠に擬態した蝦蟇が飛び掛かり、ある時は塩俵が宙を飛んで塩を撒き散らし、一陣の風を伴った謎の光球が飛び込んできます。

かと思えば、不吉に軋みながら天井が下がってきたり、極細の糸で畳ごと宙吊りにされたりと、デスゲームの装置のような仕掛けが不意打ちで作動する為、日常生活を営むことが困難になりました。いかに彼が豪胆な少年とはいえ、睡眠時間を削られては体力が保ちません。平太郎危うし、絶体絶命です。
ラスボス・山本五郎左衛門登場 平太郎の運命は?
寛延2年(1749)7月30日夜、連日続いた怪異に遂に終止符が打たれました。裃姿の立派な武士が稲生邸を訪ね、自分は山本五郎左衛門といい、平太郎に嫌がらせをしていた連中の首魁と述べたのです。
五郎左衛門曰く、彼は同朋の神野悪五郎と魔王の座を競い、勇ましい少年100人を驚かせる賭けを行っていたそうです。平太郎はその86人目として選ばれたものの、どんな目に遭っても決して立ち退かなかったので、五郎左衛門の野望はここに潰えました。
彼は1か月間逃げ出さず耐え切った平太郎の胆力を称賛し、「今後神野悪五郎一味が手を出すようなことがあれば我々を呼べ」と、神通力を宿した木槌を授けます。
ふと周りを見渡すとぞろぞろ物怪が集まってきました。その中には先日見かけた異形も混ざっています。頃合いと見て話を切り上げた五郎左衛門は、驚きに絶句する平太郎に別れを告げ、下僕が担ぐ駕籠に乗って去って行きました。

これが『稲生物怪録』の顛末です。物怪の首魁が人間に降参し、きちんと礼をして去るラストは、一種の清々しささえ感じさせますよね。陰湿な嫌がらせに負けじと居座り続けた平太郎の男気もあっぱれ痛快で、江戸っ子に好まれたのがよくわかります。
おわりに
以上、『稲生物怪録』のあらすじと成立背景をご紹介しました。空飛ぶ塩俵や葛籠の蝦蟇は付喪神の眷属かもしれないにせよ、狂ったように尺八を吹き鳴らす虚無僧の群れや、うじゃうじゃミミズを吐き出す灰のお化けは、恐怖と紙一重のシュールな笑いを誘いますね。
【主な参考文献】
- 千葉幹夫『全国妖怪事典』(講談社、2014年)
- 水木しげる『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』(講談社、2014年)
- 東雅夫『稲生物怪録』(KADOKAWA 、2019年)
- 杉本好伸『稲生物怪録絵巻集成』(国書刊行会 、2004年)
- 杉本好伸『吉祥院本『稲生物怪録』: 怪異譚の深層への廻廊』(三弥井書店、2022年)
- 近藤瑞木『江戸の怪談: 近世怪異文芸論考』(文学通信、2024年)
- 京極夏彦『妖怪図巻』(国書刊行会、2000年)
- 荒俣宏『お化けの愛し方: なぜ人は怪談が好きなのか 』( ポプラ社、2017年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄