「大田南畝」江戸の町を後世に伝えた隠れた巨匠
- 2025/03/25

大田南畝(おおた なんぽ)という名は、江戸の歴史を探っていると、必ずといっていいほど突き当たる名前です。映画やテレビで放映されている時代劇を作るには、「時代考証」という作業があり、考証する際の元となる文献が必要となります。太田南畝はそうした文献を大量に、しかも緻密に現代に残してくれた人なのです。
平安時代、鎌倉時代、室町時代を舞台にした物語では、一般庶民の生活や暮らしはあまり描かれないですが、それは文献があまり無いからです。しかし、江戸時代を舞台にした物語であれば、それは正確に描かれます。太田南畝が残してくれた史料のおかげだといっても過言ではありません。
本記事では時代の記録者として、また一代の文芸家として多大な業績を上げた、江戸時代の隠れた偉人・太田南畝をご紹介します。
平安時代、鎌倉時代、室町時代を舞台にした物語では、一般庶民の生活や暮らしはあまり描かれないですが、それは文献があまり無いからです。しかし、江戸時代を舞台にした物語であれば、それは正確に描かれます。太田南畝が残してくれた史料のおかげだといっても過言ではありません。
本記事では時代の記録者として、また一代の文芸家として多大な業績を上げた、江戸時代の隠れた偉人・太田南畝をご紹介します。
出身は御家人の家柄
大田南畝は、寛延2年(1749)に御家人である大田正智(まさとも)の子として生まれました。南畝は号であり、名は大田覃(ふかし)です。(※ この記事では便宜上、表記は「南畝」で統一します)江戸時代の御家人というのは、徳川将軍家直属の家臣団であるものの、将軍家への謁見が許されない「御目見得以下」と呼ばれた下級武士でした。しかし、南畝は小さい頃から頭脳明晰で6歳で漢学者である多賀谷常安(たがやつねやす)に入門。その後、歌人・内山賀邸(うちやまがてい)の門下となり、国学や狂詩、漢詩を修めました。
特に狂詩という世相を風刺した和歌をたくさん作成していたのですが、それを見た平賀源内が絶賛し、出版される運びとなりました。それが処女作の『寝惚先生文集』(ねぼけせんせいぶんしゅう)です。
この文集は独特のユーモアに溢れており、江戸の一般庶民の大評判となって、南畝は一躍、気鋭の新進作家として注目を浴びるようになったのです。
天明狂歌ブームの牽引役、かつ、黄表紙本作家としても活躍
処女作発行から2年後には四方赤良(よものあから)の号で数多くの狂歌を作成、発表して江戸の町に天明狂歌と呼ばれる一大狂歌ブームを巻き起こしました。これに興味を持った蔦屋重三郎が、彼の作品を黄表紙『菊寿草』(きくじゅそう)として発行し、これも大評判を取ります。しかも太田南畝は作るだけでなく、評論にも長けており、黄表紙の見開きに載せる紹介文ともいえるものを書かせたら右に出るものはいませんでした。
こうした点でも蔦屋重三郎は太田南畝におおいに助けられたようです。平沢常富こと、朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の書いた黄表紙『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)は、南畝が紹介文で絶賛したことで大ヒットしました。また、のちに代表的な戯作者として名をはせる山東京伝を見出したのも南畝だと言われています。
こうして南畝は蔦屋重三郎にとって欠かせない存在となっていったのです。
寛政の改革と一時休筆、再開
しかし、その活動も自由な田沼時代ならではの物でした。田沼意次が失脚し、松平定信の寛政の改革が始まると、各種の取締りが厳しくなり、作家としての活動を控えざるを得ない状況となってしまいます。そこで南畝は一旦、作家ではなく武士としての「大田覃」に戻ることにしました。元々、御家人という下級武士でしたが、寛政の改革で設けられた「学問吟味」という武士の登用試験を受けて首席で合格。そして支配勘定(勘定所で実務を行う勘定奉行の部下)に抜擢されます。その後、大阪銅座、長崎奉行所と幕府の要職を歴任していきます。
しかし、持って生まれた文筆の才がうずきだしたのか、大阪銅座に赴任した頃から作家としての活動を徐々に再開します。再開後は号を蜀山人と称し、狂歌を中心に緩やかに活動を続け、武士としての業務と平行して作家業を続けていきました。
寛政の改革を風刺したという、以下の有名な狂歌は太田南畝が作ったものです。
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜も寝られず」
時代の記録者として
南畝は非常に筆まめなことでも知られています。自分が目にしたことや、聞いたことなどがあれば必ずメモに残していたようです。メモを貼込帖に貼り、随筆として出版しました。随筆というとエッセイと同義と思われがちですが、彼の随筆は自分自身の考えや意見は一切述べず、単純に事実だけを書き留めたもので、実質的に歴史の記録と言えるものでした。
随筆としての代表作である『一話一言』は、江戸時代の歴史考証をするうえで、必読の書となっています。南畝が残してくれた大量の随筆のおかげで、現在を生きる私達は江戸時代の一般庶民の生活や出来事を知ることができます。もし、彼が記録を残してくれなかったら私達が時代劇と呼んでいる江戸時代のドラマは生まれなかったかもしれません。
南畝の探究心は幅広く、伝統的な事物から、庶民の風俗・習慣の歴史まで及びました。中でも江戸の地理や、遊里を含む風俗・文化の成り立ちへの関心が強かったらしく、極めて微細なことまで記録してくれています。「私達の知る江戸時代 = 太田南畝の残してくれた記録」といっても過言ではないでしょう。
南畝は当時としては高齢の74歳まで生き、亡くなるまで現役の幕閣として仕事をしていました。死因は江戸城に登城する際に転んでしまい、その時に受けた傷が悪化してのものでした。
おわりに
江戸時代の作家といえば、井原西鶴や十返舎一九などが有名であり、太田南畝は彼らほどの知名度はありません。作品が狂歌という同時代人でないと理解しにくい物であったことや、随筆が物語ではなくて見聞録だったこと等から現代人には親しみにくかったのでしょう。しかし、もし彼の残した膨大な記録がなかったなら、クオリティーの高い江戸時代を再現した時代劇の製作は、極めて困難だったかもしれません。
【主な参考文献】
- 浜田義一郎『大田南畝(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館、1986年)
- 渥美国泰『大田南畝・蜀山人のすべて 江戸の利巧者昼と夜、六つの顔を持った男』(里文出版、2004年)
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