室町最後の将軍・足利義昭こそ、織田信長最大の敵だった?

  • 2026/05/05
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戦国の覇者・織田信長の強敵として名前が挙がるのは、武田信玄、上杉謙信の両雄、あるいは大坂本願寺の一向一揆でしょうが、もう一人、忘れてはならない人物がいます。室町幕府最後の将軍・足利義昭です。
なぜ、義昭が信長の強敵となり得たのでしょうか?

※足利義昭の全体像を知る→「足利義昭」総合解説ページへ

義昭、信長への信頼から対立へ

 足利義昭というと、一般的には「信長に担がれて将軍になったものの、信長と対立した挙句、最後は身一つで追放された哀れな将軍」というイメージがつきまとっています。ただ、実際にはかなりの策略家だったようです。

 義昭は、兄の13代将軍義輝が三好氏らによって殺された後、越前の朝倉義景の元に身を寄せます。義景に再三上洛を促しますが、義景が動かなかったため、今度は尾張の織田信長を頼り、信長の強大な軍事力をバックに上洛を果たし、15代将軍の座に就きます。
恩人である信長を父親のように慕っていたそうですが、自分が信長の傀儡(かいらい)だと分かってからは、信長と対立するようになります。

 そして、第1次信長包囲網を仕掛けるのです。

義昭の第1次信長包囲網とは

 義昭は、信長が四方八方を対抗勢力に囲まれていることに着目します。そして元亀2年(1571)ころから、諸大名らに御内書(将軍からの書状)を下すようになります。

 主な送り先は、旧知である越前の朝倉氏のほか、近江の浅井氏、摂津の三好氏、大坂本願寺、比叡山延暦寺、そして甲斐の武田信玄。このころはまだ、信長に決戦を挑むというよりも、信長を牽制することで将軍としての権威を高めようというねらいがあったようです。

 翌元亀3年、信長から「異見十七ヶ条」を叩きつけられた義昭は、次第に対決姿勢を鮮明にしていきます。折しも、戦国最強の軍団と言われた武田信玄が西へ向かうとの報に接し、包囲網によって信長を倒すチャンスがめぐって来たのです。

 義昭は信玄の軍事行動に呼応し、自らも出陣しました。ところが、千載一遇のチャンスに朝倉、浅井氏は動かず、信玄も甲斐に引き返す途中で死去してしまいます。包囲網は崩れ去り、孤立無援となった義昭は、信長によって京都から追放されてしまったのです。

義昭の第2次信長包囲網とは

 義昭は流浪の末、備後の鞆の浦で毛利氏の庇護(ひご)下に入ります。ただ、打倒信長への執念の炎は消えていません。京都を追われたとはいえ、義昭は依然として将軍のままだったので、再び諸大名らに御内書を送り、第2次包囲網の構築を目論んでいきます。

 すでに毛利氏を味方につけている義昭ですが、ここに大坂本願寺や謀反を起こした松永久秀が加わり、さらに信玄亡き後、信長にとって最大の脅威だった上杉謙信も参加し、第1次よりも広範囲な信長包囲網が出来上がったのです。

 信長は危機的な状況に陥りつつあったのですが、天正6年(1578)3月に頼みの綱である謙信が急死し、上杉氏に相続争いが起きたことで包囲網が瓦解。松永久秀の謀反は鎮圧され、大坂本願寺も信長に屈服してしまいます。

 天下統一目前だった信長ですが、天正10年(1582)の本能寺の変で明智光秀に志半ばで討たれました。光秀は、かつて義昭に仕えていた側近でしたので、間接的ではありますが、義昭は打倒信長を果たした形になったわけですね。

おわりに

 足利義昭が仕掛けた第1次、第2次織田信長包囲網は、核となる武田信玄、上杉謙信の死という偶然の出来事さえなければ、信長をかなり追い詰めていたでしょうし、ひょっとしたら信長を倒していたかもしれません。

 義昭がいなければ、2度も包囲網を作れなかったことを考えると、織田信長にとって最大の敵は義昭だったといっても決して過言ではないと思います。

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  この記事を書いた人
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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