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本能寺の変の諸説その2「足利義昭黒幕説」 ~ 最有力の説!?黒幕は将軍だった…

本能寺黒幕説(将軍編)

2017年9月12日の毎日新聞は、明智光秀が反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと報じた。三重大教授の藤田達生氏による発表であった。

これを契機に義昭黒幕説についての議論が活発に行われるようになったというが、脚光を浴び始めたこの説の核心に迫ってみようと思う。
(文=pinon)

本能寺の変の時点での征夷大将軍は義昭

室町幕府15代将軍足利義昭と言えば、信長に奉じられて将軍となり、その後信長によって元亀4年(1573年)に京を追放された将軍として知られ、それにより室町幕府も事実上滅んだとされている。

ところが、『公卿補任』によると、その後も義昭は征夷大将軍であり続けたという。

足利義昭の肖像画
足利義昭の肖像画
天正4年(1576年)には毛利輝元の支配する備後国の鞆(とも)に移り住んでいる。鞆での義昭は隠居生活を送っていたわけではなく、将軍として亡命政府である幕府を切り盛りしていたようである。

近畿や東海地方を除いた地方では、幕府支持の武将も多く、義昭は再び上洛する機会を窺っていたというのが実状であったらしい。

義昭は権謀術数に長けた人物

室町幕府は南朝の存在の影響もあって、京で成立した幕府である。そのため朝廷との関わりも多く、将軍は公家化していったようである。

特に8代将軍義政以降は、公家化した無力な将軍が多い印象が強いが、その中にあって義昭は特別な存在のように感じる。戦の上手い下手はともかく、謀略に長けているのである。

信長に京を追われた後は、毛利氏の下で将軍として、反信長の包囲網(第三次信長包囲網)への参加を諸大名に呼びかけた。 結果として、本願寺・武田・毛利・宇喜多・上杉らがこれに賛同して行動するに至るなど、謀略で信長を散々に悩ませた。

このように謀略で大名を動かすことは得意な義昭であったが、長年の流浪生活の影響から貧乏性が身についてしまったのか、非常にケチであったらしい。

例えば、『御湯殿上日記』によれば、元号が元亀から天正に変わる際には改元費用の献上を拒み、さらには歴代室町将軍が行っていた禁裏修繕も行なわなかったと言われる。このことで朝廷の評判は芳しくなく、信長に京を追放する口実を与えてしまっている。

ひょっとすると、朝廷は気前の良い信長をとっとと征夷大将軍に据えて、義昭には出家でもしてもらいたいというのが本音であったのかもしれない。

長宗我部 元親との意外な関係

四国の戦国大名で有名な長宗我部元親の正室は、石谷光政(いしがい みつまさ)の次女であったことがわかっているが、この石谷家は代々室町将軍家に仕えた奉公衆であった。

ちなみにこの光政は一説によると、13代将軍足利義輝の庶子(正室以外から生まれた子)であり、足利家との関係も深いという。 つまり、長宗我部元親と足利義昭は親交があった可能性が高いと思われる。

さらに、石谷光政の養子である頼辰は明智氏の一族である斎藤利賢(さいとう としかた)の長男である。明智光秀、長宗我部元親、足利義昭は浅からぬ縁によって結びついていたようである。

長宗我部元親と言えば本能寺の変「四国説」のキーマンであるが、義昭との交流があったということで、「将軍義昭黒幕説」と「四国説」はあるいは関連しているのかもしれない。

義昭黒幕説の証拠とは

冒頭にも書いたが、最近発見された『6月12日付土橋重治(つちばし しげはる)宛光秀書状(原本)』は、明智光秀が本能寺の変後に書いた土橋重治宛の返書である。

土橋重治は鉄砲で有名な雑賀の反信長勢力のリーダーであった人物で、毛利氏や足利義昭とも連携して信長に反抗していたことで知られている。この書状、写しの存在は以前から確認されていたが、原本が発見されたことでその内容が正確であることが判明したのである。

書状にはこうある。

仰せの如く、いまだ申し通さず候ところに、(闕字)上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども(平出)御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事

重要なのは、義昭の上洛を図るべく行動することについて「即ち御請け申し上げ候( 既に承知しています)」と書いていることである。これからは重治が義昭の指示によって行動していること、そして光秀も再び義昭と連携して上洛の準備を進めている様子がこの書状から窺える。

さらに追伸として、

なおもって、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細(闕字)上意として、仰せ出さるべく候由也、巨細あたわず候」

と記されており、以下の特筆すべき箇所がある。

「委細(闕字)上意として、仰せ出さるべく候由也、巨細あたわず候( 詳しいことは将軍義昭公からの命がありますので、ここでは申し上げません )」

ここからわかるのは、上洛戦の軍事指揮権がおそらく足利義昭にあったということである。

もちろん、この「将軍義昭黒幕説」には反論もある。

この密書の内容では、事前に義昭と光秀が詳細な計画を立てていた証拠にはならないというのが反論の1つである。 しかし、事前に上洛について2人が話をしているという点に私は注目したい。

詳細な計画を立ててしまうと、情報が洩れてしまうなどのリスクが生じるという点は考慮が必要である。 そして、信長を討つ決行日を定めることは、事実上不可能に近いと思われる。 信長も光秀も多忙ということもあるし、下手に軍を動かせば謀反を疑われる。 そうなれば義昭も無事では済まされない。

そのような中で、最も合理的な方法は「隙あらば討つ」という緩い計画を立てるということではないだろうか。 この前提であれば、本能寺の変後に光秀が近江の支配権を確立すべく動いたのも納得がいく。

信長の後継者の地位がある程度確定すれば、義昭が上洛に向けて動いてもリスクは少ない。 そう考えると、変後の光秀の行動は無策ではなく、極めて緻密なものだったといえよう。
羽柴秀吉の「中国大返し」がその緻密さを崩壊させてしまったのであるが・・・。

山崎の合戦後、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めている。これは、そもそもの手はず通りだったのかもしれない。 そして驚くことに、柴田勝家や羽柴秀吉にも上洛の支援を呼び掛けているのである。

当時勝家と秀吉は対立関係にあったから、どちらが信長の後継者となるか微妙な時期であった。 義昭は勝家と秀吉を両天秤にかけているという印象を持つのは私だけだろうか…。

この義昭の上洛への凄まじい執念を目の当たりにすると、本能寺の変の際も秀吉の中国大返しを知るや、光秀と秀吉を両天秤にかけたのではないかと邪推してしまう。個人的には私はそういう見解を持っている。





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