※ この記事はユーザー投稿です

  • [PR]

【新選組】永倉新八は、隊の反主流派だった? 局長・近藤勇との決別の真相

 尊王攘夷の志を持ちながら、幕末の京都で治安維持に剣を振るっていた新選組にあって、局長の近藤勇や副長の土方歳三を支え、隊の中心メンバーとして活躍した永倉新八。実は新選組のなかでも「反主流派」とも言えるような存在だったようです。

  • [PR]
  • [PR]

新選組を創った男たち

 剣の強者ぞろいだった新選組のなかで、永倉新八は最も剣の腕が立つ隊士だったと言われています。神道無念流で剣術の腕を磨いてきた永倉は、縁あって天然理心流の道場主・近藤勇と出会い、食客として道場に入り浸るようになります。

 そのころの道場には、土方歳三のほか、沖田総司、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎といったそうそうたる剣の達人が揃っていました。そんな仲間たちと切磋琢磨しあってきたのです。

永倉は二番隊組長、および撃剣師範を務めた
永倉は二番隊組長、および撃剣師範を務めた

 近藤は多摩の出身で、同郷の土方や井上、幼い時から内弟子だった沖田とは深い結びつきがあったと思われます。一方で、山南、原田、藤堂、永倉は、それぞれ別の出自を持っており、同志ではあっても地縁、血縁はありません。

 永倉が「反主流派」だったのも、そんな背景があったのかもしれませんね。

増長する近藤に建白書提出

 永倉が大正時代に小樽新聞の取材を受けて口述回顧した『新選組顛末(てんまつ)記』のなかでは、永倉の反主流派ぶりがいくつか紹介されています。

 最も有名な出来事は、永倉、原田、斎藤一らが近藤勇のわがままな振る舞いや増長ぶりに我慢できず、元治元年(1864)に会津藩主・松平容保に提出した建白書「非行五カ条」です。局長という隊のトップに対し、反旗を翻したのも同然の行為でした。

武勇と豪胆で知られる近藤勇(出典:国立国会図書館  近代日本人の肖像)
武勇と豪胆で知られる近藤勇(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)

 永倉らは切腹を覚悟のうえで建白したようですが、こじれれば新選組解体の危機になりかねないと驚いた容保は、近藤を諭して事態を収拾しようとし、酒の席を設けて和解したのです。

 ただ、近藤と永倉との間に大きな溝ができたことは間違いありません。

門限破りをしてあわや切腹に

 同じ元治元年に伊東甲子太郎が門人を引き連れて新選組に加入します。近藤は伊東に参謀という特別待遇を与えますが、やがて考え方の違いから伊東は独自の行動を取るようになっていきます。

 慶応3年(1867)の正月、伊東は門人だった腹心とともに永倉と斎藤を連れて遊郭に繰り出し、夜通し飲み明かしました。伊東には、反主流派だった永倉と斎藤を自分の仲間に入れたいとの思惑があったようです。

 当時、新選組は門限を厳格に守っており、要職にある者が門限破りをすることは重大な罪とされていました。何日も隊を留守にしていた伊東らに対し、業を煮やしていた近藤は謹慎処分を言い渡します。

 『新選組顛末記』によると、近藤は会津藩建白書の一件以来、永倉には思うところがあり、会津藩の許しを得て切腹させようと思ったそうですが、土方が止めたことで事なきを得たといいます。この事件は後に、伊東が新選組を離隊して御陵衛士を結成するきっかけにもなりました。

近藤とたもとを分かつ永倉

 伊東一派(御陵衛士)の存在や大政奉還(1867)などの政治的な動きもあり、永倉の反主流派ぶりは影を潜め、やがて戊辰戦争が勃発すると、新選組は一丸となって幕府のために戦いを繰り広げていきます。

※参考:戊辰戦争の流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の大まかな動き
※参考:戊辰戦争の流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の大まかな動き

 江戸に戻った新選組は、甲陽鎮撫隊と名を改めて甲府城目指して進軍しますが、新政府軍に先行され、甲府手前の勝沼の戦いで惨敗を喫しました。

 永倉と原田は会津藩に合流することを近藤に進言しますが、近藤は次のように言い放ったのです。

【近藤】「自分の家臣になるならば賛同しよう」

 長年、同志だと思っていた永倉は突っぱねます。

【永倉】「我々はあなたの家臣ではない」

 反主流派である永倉は、ついに近藤とたもとを分かつことになったのです。

おわりに

 近藤勇と決別した永倉新八でしたが、明治9年(1876)に自らが発起人となり、近藤が処刑された東京板橋の地に「近藤勇の墓」を建立しました。新選組の反主流派ではあったものの、根底にあった熱い志は近藤と同じだったのでしょう。

板橋の地にある近藤勇の墓
板橋の地にある近藤勇の墓

 永倉は、出身の松前藩(北海道)への帰参が許されて明治の世を生き抜き、大正4年(1915)に75歳の生涯を閉じました。

  • [PR]
  • [PR]
  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。
  • [PR]
  • [PR]